舞踏青龍會の「迸り水」

原田伸雄と舞踏青龍會 群舞 「迸り水(はしりみず)」

出演=原田伸雄 縫部憲治 松岡涼子 松岡智恵 堤紫 秦貴美子 峰尾かおり
舞台監督/岡田隆明 照明/アイカワマサアキ 音響/松田美幸

8月30日(火)19:30からの公演だった。会場は神楽坂ディープラッツ

経歴をみると、舞踏青龍會を主催する原田伸雄氏は、笠井叡がかつて率いていた「天使館」の出身なのだという*1

大まかにいって、今回の公演は女性ダンサーがメインとなるはじめのパート(第一部)と、原田伸雄と縫部憲治という二人の男性ダンサーがメインとなる後のパート(第二部)に別れていた。

第一部にあたるはじめのパートはさらに、二つに分かれていたと言える。まず、ざわめきがなだらかな起伏を描くような音楽を背景に、はじめは三人のダンサーがかたまりながらゆっくりと、しかし緊迫感に満ちて、じりじりと舞いながら前進していって前方に折り重なるように静止する、やがて両脇から二人のダンサーが加わり、おなじようなプロセスを経て、中心に折り重なる前半のパートがある。

次いで、ASA-CHANG&巡礼の、パーカッションにのせて「ハナガサイタヨ」という言葉を切れ切れに繰り返していく曲にあわせて、重なり合ったダンサーたちが花開くように舞台に散って舞っていく後半のパートが展開する。「アフタートーク」の際にそのことを質問してみると、原田伸雄さんは、前半は無意識の奥へ奥へと潜り込んでいくパートで、後半はそこでつかんだものを花開かせていくパートだった、と言っていた*2

結論を先に言ってしまうと、この二つの場面のコントラストにおいて、前半を素晴らしいと思った私は、後半についてはあまり認めたくないのだった。ともかく、この、前半と後半とでは舞踏に向かう姿勢が180度違うのではないかと思った*3


たとえば、前半での、峰尾かおりの細かな震えが断続的に緊張をはらんで持続し、それぞれの動きが細切れにされた細動のようになっていく運動の見事さにはとても感銘を受けたのだけど、その同じダンサーの動きが、後半において、いわば開放されていくとき、それは単なる弛緩であるように見えて、あまり魅力的ではなかったのだ。

これは単純に、緊張の糸が張り詰めるような気配が私の好みであるという個人的嗜好の問題なのかもしれない。だが、私には、第一部の前半にあたるパートの舞踏が極めて完成された創造的なものに見えた*4のに対し、第一部後半の舞踏は、まったく創造的には見えなかったのだ。その理由を多少なりとも書いておきたい。


普通、顔を中心とした身体は、社会関係の中で規定された挨拶や身振りの交換の中で社会的な表情を帯びたものとして現れている。そうした、ある種の日常的な拘束を解除したときに、身体が裸性において露呈されるようなことがある。単純に言ってしまえば、あの女性群舞による後半のパートでは、それぞれのダンサーの身体の裸性が単に露出しただけなのではないか、という疑念が私にはある。私が感じたのはおぞましさの感覚に近いようなある種の異様さの感覚だったのだが、それは、単なる露出に感じる嫌悪とでも言うべきものだったかもしれない。

おそらく、ある種のスピリチュアルな探求においては、人格の社会的な殻みたいなものを破る技法が様々に開発されているだろう。その身体を介した社会性が破られて、自発性がだらしなく身体の表層に漏れ出る時に身体が纏う質感は、たいてい似通った質感を帯びるものらしい。開花のイメージにあわせた女性たちの舞は、どれも似たような類型的な多幸感と受苦の感覚が混濁したような様相を表していて、それは、自発性の露呈として、どこかで見たようなありがちなものに見えたのだ*5

造形性において舞台表象を評価したい私にとっては、単なる自発性の露呈は評価できないという、それだけのことなのかもしれないが、ともかく、身体表現の全く別の類型がひとつのプロセスとして作品化されていたことは大いに問題を含んだものであったのではないだろうか。


公演の第二部的なパートでは、縫部憲治、原田伸雄がそれぞれ迫力のあるソロを披露し、その後二人がデュオ的に絡んでいった。デュオ的なパートでは、武道的なものが美意識において取り入れられているようで、斬首のような身振りも繰り返され、たとえば三島由紀夫が最後にのめりこんで死んでいったようなホモセクシュアル的イメージが散見されたように思う。それぞれのパフォーマンスに見ごたえはあったけれども、それぞれがドラマを類型的なものとしてなぞっているように見えた時点で、私の感興は殺がれていた、とだけ記しておこうと思う。

(9/3に記述)

*1:舞踏の系譜を考えるとき、大雑把に土方巽系と大野一雄系にわけて考えてみると、図式としてはわかりやすいのではないかと思う。実際はそう単純に二分できないものなのかもしれないけれど、舞踏というジャンル名を標識として用いるとき、それが決して一枚岩の世界でないことを外から見ている人に伝えるのに、大野系と土方系とわけてみるのは、悪くない指標ではないかと思う。たとえば、土方系が型と様式を伝えているとしたら、大野系はより多様にそれぞれの個性を発揮している、などと特徴付けることもできるだろう。大駱駝鑑に発する系譜が土方系の一大傍系だとするなら、天使館に発する系譜は大野系の一大傍系ということになるだろうか。

*2:ダンサーの方は、様々なイメージを携えて踊っているのだとおっしゃっていたが、明確な差があるとはおっしゃっていなかったのではあるが

*3:今回「ダンスがみたい7」の「批評家推薦シリーズ」で舞踏青龍會を推薦した村岡秀弥さんは、「求道的側面と心身の開放という二つの側面を統合しつつ表現を模索している点で旧天使館の伝統を継承している」といった趣旨の文章を書いていたのだけど、イメージとしては、前半が求道的、あるいは禁欲的であったのに対し、後半は開放的と言えるようにも思えて、アフタートークでもそういう趣旨の発言をしてみた

*4:前半部は見事に振付けられたものかと思ったほどだが、話によると即興であったらしい。即興において、互いの身振りが完全に同期し、ひとつの造形として舞台に展開されるほどに、技法が共有され、気配が共有されているのは見事なことだと思う。

*5:身体表現が落ち込みがちな領域としてスピリチュアルな修行の技法について考えるとき、天使館の笠井叡が、古神道などの探求の果てにオイリュトミーにのめり込んで行ったことも想起されるわけだが、そのことをどう考えるかは、私にとっても考えておくべきテーマとして開かれたままであるかもしれない。まあ、ちゃんと考えないまま投げ出してしまうかもしれないけれど。あのオウム真理教の事件もまたこうした問題の傍にあったわけだが。