配置ガールと森がある(続き)

この日、けのびの試演会を見に行こうとして方南通りをさまよっていたら、神村恵さんとばったり会ったので、チラシを忘れて会場がわからない僕は、なんとなく神村さんと一緒に会場にたどり着いた。
けのび公式サイト:当日とエ−ル

その日、前エントリー「配置ガールと森がある」をポストして出かけたところなので、ああまだ神村さんの目には入ってないだろうな、と思ったけど、なんだかそわそわしてしまった。

観客は、結局、神村さんと僕の二人。出演者は葵ちゃんとマヤさんの二人。それにビデオを手に持った作家と、新宿のはずれの築40年ほどの二世帯住宅の屋上で、副都心を夕日が染め上げるのを見ながら、寒風に吹かれるなか、40分足らずのセリフとふらふらした動きと、少し交わされる目線を眺めて、ハヤシライスをいただきながら、いかにも初心そのままの舞台作品の感想を話したりして、帰った。

帰り道でふと、「配置ガールと森がある」というタイトルにあわせて思い付いたことを書き残してたなと思い出した。

配置というのは、能動/受動の範疇で語られることだとすれば、森というのは自発性の範疇で語られる言葉ではないだろうか。

要素を分節し、分節された任意の要素を任意の場所に置く/置かれる、という風になされる作業を「配置」と呼ぶのだとすれば、森というのは、たとえ人工的な植林の結果形成されるのだとしても、そこに自生的な生態系が成立しなければ、森として成り立たないものなのだ。

なので、意図的に分節し配置できる身体的な動作のレイヤー(階層)の上と下に、自ずと形成される秩序がある。腐葉土が地下の微生物によって形成され、それが森を再生産するような仕方で、幹や枝葉のようには目に見えない秩序が、微細なレベルと総体のレベルで対応している。

そういうものを森と言うなら、それは、身体の社会性と名指されるような問題系に茫洋と広がっているものであって、配置とは、その変換に他ならない。植林や伐採に該当するような介入的な操作である。

前回、トナリティー(調性)という言葉をうっかり使ったのだけど、これは思いつきの比喩とはいっても、何の典拠もないと言うわけではなくて、ラバンが動きのスケール(音階)を規定するような試みをしたことを、なんとなく聞き知っていて、そのことが念頭にあった。

舞踊は音楽の後を不器用に追いかけていたわけだ。

とすれば、音楽が無調の試みをしたような事とパラレルなことが、舞踊においても生じたということだろう。

問題は、音階や和声のようなものが、生まれては崩れ変形していくプロセスは、舞踊においてはより高次の複雑さにおいて生じるのであって、その現場では、ただのでたらめと、繊細な作業との間の違いが、音楽におけるよりも見分けにくかったりして、文脈の入り混じる複雑さは、音楽よりも日常言語に近いくらいだ、というようなことだろうか。

そこでは、多様な文脈がクラッシュして、思わぬ豊かさが生まれることもありえる一方、混乱が貧しいイメージに回収される危険は常に背中合わせだ。

などと、あなたはなぜ他人事のように書くのか?と問われるなら、自分にとっては、緻密なダンスを見るよりも、でたらめにでも自分で踊っている方が楽しかったりするので、求道的に舞台ダンスを精査し続けるようなステージに立つのは、専門家にお任せしておきたいし、傍観者的に好きなものだけ見たいときに見られればそれで十分だな、と最近は思っているからだ、とでもお答えしておこうかと思う。

ところで、配置ガールって言うのはもちろん神村さんとかのことを親しみをこめて名指しているわけだけど、日本の戦後教育において、モダンダンス=創作舞踊が、女子体育教育となぜか結びついて体制化したってことを系譜学的に解きほぐしておかないと、神村恵にせよ手塚夏子にせよ矢内原美邦にせよ、先鋭的なダンスの試みをするのが女性に多い(音楽と比較すれば、明らかに女性に偏っている)所以は見えてこないだろうし、そこで無自覚に前提されている多くの事を明確化しておかないと、浮ついた宣伝文句しか出てこないで終わることになりかねないよね。とちょっと思ったりした。

という意味で、戦後日本の系譜を分節しながら、森ガールと配置ガールの相補性を考えたってかまわないのだ。

というわけで、皆様良いお年を。