『宴の身体』/芸能の地層

『宴の身体』という本を読んで思ったことなどいくつか。著者の松岡心平という人は、「橋の会」で能の上演にも積極的に関わった人とのこと。

宴の身体―バサラから世阿弥へ (岩波現代文庫)

宴の身体―バサラから世阿弥へ (岩波現代文庫)

中世の文化史を辿りながら世阿弥の芸術がどのように成り立ったのかを探っていくような著作だった。
文芸や芸能の歴史を身体とパフォーマンスの場から読み解く姿勢が一貫している。議論の積み重ねから、世阿弥を生み出す伝統が浮かび上がるように論文が配置されている*1

一遍の踊念仏とか時宗の運動が連歌能舞台を準備するものだったというところから話ははじまるのだけど、このあたりパフォーマンスの場の系譜を語る部分で思い出したのが網野善彦司修と作った次の絵本。

中世の町がどのように発展したのか網野史学のエッセンスを込めた絵柄で物語られるこの絵本では、一遍に従う人々の様子が中心モチーフのように繰り返し描かれるのだった。

ところで、小西甚一の『日本文学史』をこの間読んだところだったのだけど、和歌史を簡潔かつ劇的に描きつつ、連歌から俳諧への歴史を一貫して素描していく筆致のみごとさが印象深かった。

日本文学史 (講談社学術文庫)

日本文学史 (講談社学術文庫)

小西甚一二条良基連歌の新式(応安新式)を定めて連歌の式目が統一されたのを連歌史の画期として語っていてとても印象深かったのだけど、そこで「連歌の式目は、たいへん繁瑣なもので、まちがいなく運用できるまでには、およそ二十年の修行を要するといわれる。」(学術文庫p.116)と書いていて、到底連歌なんか歯が立たないなと思わされた。
ところが『宴の身体』では、その良基が世阿弥の美童ぶりを描写した書簡が紹介されていて、一気に何か身近な存在に思えて、面白かった。

おなじ人を、ものにたとへ候に、春のあけぼのの霞のまより、樺桜の咲きこぼれたると申したるも、ほけやかに、しかも花のあるかたちにて候。(単行本p.146)

これ、世阿弥(童名は藤若)の美少年ぶりにめろめろになって会いたい会いたいと世阿弥が居た寺の僧侶に訴えている書簡らしいそうなんですけど*2、その一節が、「稚児と天皇制」についての論考(三島由紀夫の引用から始まる)の後に置かれている。

少年愛的なエロティシズムとセクシュアリティが、密教経由で中世に権力の中枢でどのような象徴として機能していたのかをコンパクトに論じていて勉強になった。その図式は、卑賤な芸能民の出である世阿弥が将軍義満の寵愛を受けるにいたる審美的世界の原理として示されるわけだ*3

そのあたり、興味本位ではなくむしろ冷静にセクシュアリティの意味合いが語られるのではあるが、親密さの空間に交差する美意識の襞を丹念かつ簡潔に示してくれるので、錯覚かもしれないが、なんだか身近に思ってしまうのだった。

話は、良基の連歌論を支えに世阿弥の創作理念や美意識を読み込むところまで及んでいるので、そういうところをまじめに読まないといけないところなんだけど、美少年の媚態に心奪われる貴族や高僧の心情に寄り添う筆致には読み手を浮き足立たせるものがあって、そういう色気が漂うところはおそらく著者自身が観世寿夫の舞台に心酔した経験に残響としてつらなっているのだろう。

連歌が本来の意味での一揆と関わりがあるということにも触れられていて、その文化的な状況、パフォーマンス的な場のあり方が能につながっていくという議論が組み立てられている。そして、それがバサラの審美性とか華麗な空間演出のあり方なんかとのつながり、あと、寺社への寄進を募る勧進が芸能と重なっていくこと、そして、それらの空間が、現世的な関わりを宙吊りにする「無縁」的な原理に支えられていて、南北朝の争乱に至る社会の変動に伴ってそれまでの共同体が解体再編成されるプロセスにおいて「一揆」という新しい共同性を仮構する仕掛けにつながっていたことなどが重層的に論じられていく*4

もうひとつ述べておけば、複式夢幻能の成立を、仏教説話に源を探って、供養と勧進の場から生まれたものだと論じているのも教わることが多かった。西郷信綱が追悼儀礼の展開として日本演劇史を総括した「鎮魂論」という論文があるのだけど、西郷の追悼論に欠けている視点がどのようなものか、はっきり見えたように思った。

兵藤裕己の『琵琶法師』という本も重なり合う時代をすこし違う位相から語っていたわけだけれど、

琵琶法師―“異界”を語る人びと (岩波新書)

琵琶法師―“異界”を語る人びと (岩波新書)

兵藤の議論は土俗的な世界に身を寄せていくのだけど、そこにもひとつの偏りがあるということが改めてわかるよな、という感想が残った。あわせて読むと立体的に時代が見えてくる気がする。

さて、『宴と身体』を読んでいて思い出したのが、次の美術展で近世風俗画を見たこと。
http://www.jtnet.ad.jp/WWW/JT/Culture/museum//tokubetu/0810_event/01.html
『宴と身体』で語られているよりもだいぶ後の時代、安土桃山から江戸初期くらいの絵だったけど、そこに描かれた情景を見ていて、芸能や舞台というものが、宴と連続していて、そこには享楽的な身体があったということがとても印象深かった。

『宴と身体』という本は、能や狂言が江戸時代に受け継がれることと、町民文化から歌舞伎や人形浄瑠璃が生まれてくることの、その文化的伝統には、中世的な世界の地層があるのだよな、ということを印象深く教えてくれる一冊だった。

*1:それぞれ単独に発表された論文の幾つかをそのまま収録しているようで、トピックが重複するところもあるのは玉に瑕かもしれない。

*2:今の日本語で言うと、もうこれは萌えと言わずになんだろうかと思う。「ほけほけ」というオノマトペは良基が連歌を批評する用語でぼおっとおぼろげな様子を表す語だということだけど(単行本p.165)、なんとなくおぼろでありながらきりっと締まった感じもあるのかなと想像させる響きだなと思う

*3:文化状況を語るのに、権門体制論といった政治史の議論から、連歌、和歌から説話文学や戦記物語までの文芸史、社会史的な背景なども含めて横断的に論じて行くあたりの筆致はコンパクトかつダイナミックでとても面白い

*4:このあたり、金銭が超越性と関わって流動性を得た背景だとか、その流通システムの確立がナショナリズムの形成と平行していたことなんかは、次の本での網野善彦宮田登の対談が示唆的だと思う。