『旅する巨人』/海の民の遺産

宮本常一渋沢敬三という二人の巨人の「交差的評伝」とも言える佐野眞一著『旅する巨人』を読んで、いろいろと感銘を受け、今後の読書の課題を与えられたという感じがした。
このタイミングで僕が同書を読んだのは『神と資本と女性』という、宮田登網野善彦の対談本があって、これも日本列島の社会において金銭にたいする感覚はどのようなものだったのかを掘り下げながら、交換とか交易とか商業ということの意味合いを人類史的な視点から考えるという、とても興味深く啓発的な本だったのだけど

その対談の中で、宮本常一渋沢敬三の話が出てきて、『旅する巨人』が高く評価されていたので、すぐに続けて読んでみたというわけだった。

乱読時代まで

宮本常一は、10代で瀬戸内海の故郷の島(周防大島)を出て、郵便局で電報の担当者として働く。貧しい家の数多くの若者たちが電信係として駆り出され、近代資本主義を支えながら、結核に倒れていく壮絶な歴史を佐野眞一は素描している。そのどん底の生活の中で、労働運動とも接点を持ちつつ、宮本常一の社会に対する目が開かれているという風に佐野眞一によるこの伝記は、ドラマチックに宮本常一の生涯を辿っていく*1

その後宮本常一は師範学校に入り、小学校教師として働きながら民俗学者の道を歩み始めるわけだけど、その間のエピソードとして、19歳の宮本常一が新進評論家として新潮社を足場に活躍していた26歳の大宅壮一と会う話がある。それは宮本常一が東京の高等師範学校を受験するときのことで、結局東京高師には落ちるのだけど、大宅壮一の努力の凄まじさに触発された宮本常一は「一月一万ページを読破することを自らに課し、すさまじい乱読時代に入っていった」という。

棚無し小舟

宮本常一が小学校の教師をしていたとき結核を発症して実家にもどり、療養していたときのエピソードにこんなものがある*2

長い病床で宮本はひたすら本を読んだ。長塚節全集、正岡子規全集、近松門左衛門全集、万葉集などをくりかえし読み、万葉集の半分は諳んじられるほどになった。

この本の表紙には、小さな舟の舳先に座って微笑んでいる宮本常一の写真が使われている。
http://pata.air-nifty.com/photos/uncategorized/2009/04/16/tabisuru_kyojin_bunko.jpg
瀬戸内海の孤島に生まれ、後半生を離島振興に尽力した宮本常一の生涯を象徴するものとして、海を渡る小さな舟が選ばれたのも良くわかる。

そして、この写真を見て、「棚無し小舟」だな、と思う。

山本健吉高市黒人論の中心に「棚無し小舟」を置いたことは、次の日記に記した通りなんだけど
山本健吉『詩の自覚の歴史』/人の孤独と小さな舟と - 白鳥のめがね
網野善彦の本を読んでいて、山本健吉が思いを寄せる「棚無し小舟」は、古代の水上交通がとても心細いものだったというある種陸路中心の偏ったイメージに引きつけられた解釈かもしれないな、と思うようになってきた。ほんとは海上交通はもっとにぎやかなものだったかもしれない。
万葉集の半分をそらんじるほどの宮本常一は、万葉集に残された小さな舟のイメージを、どんな風に受け取っていたのだろうか。

『旅する巨人』には、宮本常一が詠んだ短歌も紹介されている。そんな宮本常一の視点のことを思い出しながら、近代短歌と近代に読まれた万葉集のことを考えて行きたい。

アンダーグラウンド

『旅する巨人』の読後感には、どこかクストリッツァの映画『アンダーグラウンド』の印象に通じるところがあった。クストリッツァは地下の社会という荒唐無稽な設定の中に第二次大戦をはさむ世界の裏面史を寓意的に描いてみせたのだけど

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『旅する巨人』は、さながら戦後の日本を左右した隠れたエピソードを綴る裏面史という趣きだ。

とりわけ、民俗学と軍部主導の国策会社「昭和通商」との結び付きや、大陸浪人が戦後にも隠然とした力を揮っていた事情を探り出して行くあたりはあやしげな話の連続になっている。軍部と民俗学の結びつきが戦後の学問につながっていくあたりの筆致は、まるでスパイもののサスペンス小説のようだ。*3
渋沢敬三がいやいやながら戦時中の日銀総裁を引き受け、幣原内閣の大蔵大臣に就任し、戦後の経済復興にむけて采配を揮って、自らが定めた政策に則って財産を手放し、没落していく経過を語りながら、佐野眞一は、渋沢敬三が戦中ひそかに支援していた大内兵衛などマルクス主義者との関わりも素描していく。
渋沢敬三が位置する、日本の政治と経済の中枢と、貧しい身なりで日本中を地べたをはいずるように歩いていく宮本常一との関わりあいが、そうした戦前戦後の日本社会を舞台裏で動かす群像劇の二つの焦点のようになっている。

近代化とその影

この本は、民俗学が、近代化によって失われる日本列島の社会の姿を記録しようとしながら、その出会いの場が、戦後社会の姿に影を落としていく様子が、複線的に描かれて行く*4

そこで、最後に渋沢敬三宮本常一という二人の『旅する巨人』の敵として現れるのが田中角栄だった、というストーリーを佐野眞一は描いている*5
戦前の民俗学会を影で支える渋沢敬三宮本常一の関わりを語る部分は、ぐいぐいと読ませるようなドライブ感ある物語構成になっているのだけど、戦争をはさんでの後半のドラマは視点があちこちに移り、佐野眞一自身の取材旅行の記録と、取材対象の半生を再現するような語りとが錯綜する、行きつ戻りつする跛行的な進行になる。

これは、戦後になると著者である佐野自身の人生との重なり合いが多くなり、その点で資料から想像される情景を描く戦前、戦中の描写とは自ずと異なるということかもしれない。渋沢敬三宮本常一が高度経済成長の波に押し流され敗れていく過程であるからこそ、それを描く佐野の筆致もその苦渋にあわせて、足取りが重くなるという所もあったのかもしれない。

また海の民が敗れる

土建屋と土地所有の力を政治的な背景にしてのしあがる田中角栄の列島改造論によって、宮本常一が組織しようとした底辺からの自発的な発展が突き崩されていく様子を読んでいて、海の民を組織した平家が壇ノ浦で源氏に敗れて行く物語を思わずにはいられなかった*6

以下、網野善彦の『日本社会の歴史』中巻から、自分のメモを抜き出して引用する。

「元来、瀬戸内海を中心とする西日本の海は、弥生時代以来、漁猟・製塩に従事し、海上交通を担う海民たちの活発な活動の舞台」(p.17)だった。「平忠盛は1135年には、瀬戸内海の海賊を追討」「着々と西国の海の世界、瀬戸内海沿海諸国に勢力を固めつつあった」「列島に定住した宋人のなかには、京都の貴族に仕えて通訳になる人もあらわれた。また、列島側の船で硫黄などを積み、宋に行く商人も見られた」「平氏はこの動きに深く関わっていた」(p.67-68)
「清盛は宋から九州に来航する商船を、瀬戸内海を経由して」「大輪田泊にまで引き入れ」「貿易・交流に積極的にとりくんでいた」(p.90)「安徳天皇をはじめ平氏一門の多くは身を海中に投じて自殺し、清盛の夢見た西国国家への道は、ここに完全についえ去ったのである。」(p.104)

日本社会の歴史〈中〉 (岩波新書)

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網野善彦は、渋沢敬三が設立に関わった、水産庁の研究機関である水産研究所で漁村の問題を調査していたことがあって、そこで宮本常一と出会っている。網野史学は、宮本常一が構想した海の民の歴史を歴史学として受け継ぎ完成させた面があるようだ。宮本常一の絶筆は「海からみた日本」という題で、そこには海の民の末裔である宮本常一の生涯と家族や祖先に対する思いが込められてもいたのだろう。

そういう、不思議な必然のように、繰り返し敗れていくもうひとつの日本について、深い溜息とともに思考停止するのではない仕方で、考えてみたいと思う。

その者がそこに降り立つ

『旅する巨人』で圧巻なのは、「土佐源氏の謎」の章だ。そこでは、宮本常一が「土佐源氏」の取材を書きとめようとするとき、取材対象の「詩」に共振して、真実よりも詩に傾いていった心のあり方を、周辺取材を重ねながら浮かび上がらせて、その核心に佐野眞一の筆は迫ろうとする。
戦後の混乱期に、国の投げやりな移民政策に翻弄されて、北海道の荒野にうち捨てられるかのような人々に同情して、その救済に奔走するのをはじめ、「済民」のために宮本常一は日本各地の村々を横断する。
佐野眞一が描き出すその宮本常一の姿を追っていると、ふと、コミック版『風の谷のナウシカ』で、難民たちを救い出そうと奔走するナウシカのようだ、と思ったりする。
宮崎駿の想像のなかで、宮崎駿自身の希求を託されたように世界を救おうとするナウシカは、なぜ少女でなければならなかったのか。何度も繰り返されてきただろうこの問いにここで答えを出すつもりもないけれど、おそらく、近代化に取り残された僻地の村々を振興しようと献身的に奔走する宮本常一にも、宮崎駿がヒロインに託すような心情を託す相手がいたということだろう。それは、世界を救うヒロインというわけではないが、世界の苦痛を一身に背負う女性たちだったのだろう。
佐野眞一は、デリケートに宮本常一の女性問題を扱っていくのだけれど、土佐源氏の謎解きの中に浮かび上がってくるのは、世界のために尽力しようとする男性の身体的な想像力の中に、女性の像はどのように湧き上がってくるのかについての、ひとつのドキュメントなのだろうと思う。

海の民の教え

島を離れて自らの道を歩もうとする少年、宮本常一に、父の善十郎が与えた教訓十カ条がある。ある種の座右の銘みたいなものとして、ネット上にも多く引用されている*7宮本常一自身が、『民俗学の旅』に書き記し、『旅する巨人』にも引用されている。短いものだけ幾つか選んで引用しておく。

金があったら、その土地の名物や料理はたべておくのがよい。その土地の暮らしの高さがわかるものだ。

これからさきは子どもが親に孝行する時代ではない。親が子に孝行する時代だ。そうしないと世の中はよくならぬ。

人の見のこしたものを見るようにせよ。その中にいつも大事なことがあるはずだ。あせることはない。自分の選んだ道をしっかり歩いていくことだ。

まるで、経営者がその後継者に語るような立派な教訓に見える。宮本常一の父善十郎は、しかし、いわゆる成功者などではなく、時折国内外の各地を放浪しながらも、底辺で慎ましい暮らしを貫いた人だったようだ。

宮本常一に感情移入するように、佐野眞一はこう書いている*8

 高等教育を受けたわけでもない父が、どうしてこれだけの教訓を垂れることができたか、宮本には不思議だったが、旅の暮らしのなかで身につけた父なりの人生訓らしいことは、子供心にもぼんやりわかった。
 善十郎は行先も告げず、ふらりと旅に出ることがよくあった。それは善十郎ひとりの性癖というよりは、この島の島民全員が共通してもっていた気風だった。
 明治末頃の満月の晩、四、五人の漁師たちが集団で行方不明になり、村じゅう大騒ぎになったことがあった。月は明るいし海も凪いでいるので、広島の宮島詣にでも行ったのではないかと村人は一安堵したものの、翌日になっても翌々日になっても漁師たちは帰ってこなかった。
 やっと一週間も過ぎた頃帰ってきた漁師たちに聞くと、宮島から広島まで足をのばし、あまり気分がいいので出雲大社まで参ってきたという答えが返ってきた。
 こうした気風のなかで育ってきた父にしてみれば、旅こそが世間を知るための唯一の学校だった。

国境や領土など知ったことではないといった風情を思わせる、海の民の伝統であるらしいこうした暮らしぶりは、「暮らしの高さ」であり、日本社会が近代化に伴って惜しげもなく捨て去った富だったのではないか、という感想も浮かぶ。その遺産の結晶が、宮本常一民俗学だったということを、この本の表紙の写真は物語っているように思う。

宮本常一と渋沢敬三 旅する巨人 (文春文庫)

宮本常一と渋沢敬三 旅する巨人 (文春文庫)

*1:社会の底辺に向けた宮本常一のまなざしを語る上で、佐野眞一が綴方運動の芦田恵乃助と宮本常一との接点を掘り起こしているところなども、とても興味深い(第三章、単行本p.54)。あるいは、小山清勝との接点も同じように綴られる(第二章、単行本p.36)。そういった点でも、同書は、日本の近代がどのように形成されていったのかを複合的に描いている。

*2:第二章、単行本p.48

*3:そこで民俗学を国策に合致させようと暗躍するのが岡正雄今西錦司がそのコネクションを生かして、自分が育てた梅沢忠夫や川喜田二郎らの若手学者をシルクロードの他民族を国策にそって研究する「西北研究所」に送り込み、兵役から逃れさせたなどの記述も戦後日本の文化状況が戦中の民俗学と軍部の結びつきよっていかに規定されたかを語る、ひとつの裏面史といえるだろう。

*4:華麗で著名な一族の渋沢敬三と父親の教えを守って孤島から旅立った宮本常一民俗学を介した出会いは、まるでハンター試験で出会う『ハンター×ハンター』のキルアとゴンみたいでもある。

*5:田中角栄を悪役に仕立てるのは、ドラマの都合上仕方の無いことかもしれないが、このあたりは、もう少し佐野眞一の思い入れを相対化して読み直したいところだ

*6:この本は「民話の会」で木下順二宮本常一がすれ違うことにも触れている(第十四章、単行本p.284)。宮本常一と、『子午線の祀り』で平家物語を日本の民族の悲劇として描くに至る木下順二(と言って良いと思うのだが)は、それぞれに日本をどのように見ていたのだろうか、という興味が浮かぶ。

*7:http://d.hatena.ne.jp/tef528/20080310/1205164039 宮本常一の父親の言葉。 | 半身浴生活であなたも変われる - 楽天ブログ 息子を送る言葉(宮本常一氏の父) その一 - 岩清水日記

*8:第一章末尾。単行本pp.25-26