近代日本語に弔いを 2.11/祖母と台湾の日本語

(承前)近代日本語に弔いを 2.1+ - 白鳥のめがね

祖父が祖母と結婚したのは、南方の戦場から九死に一生を得て帰還した後のことだった*1

中学生の頃、長期休暇には生活記録の類を提出することが課せられていた。そこに保護者欄があって、コメントを書いてもらうように指示されていたのだ。夏休みや冬休みには山あいの奥にある祖父母の家に出かけて、そこで過ごすことが多かったのだけど、その日たまたま母も祖父も居なかったからだろう、祖母に一言書いてもらおうと頼んだことがある*2

そのとき、「私は文なんかちゃんと書けないから困るよ」と、かなりきっぱり断られたことがある。尋常小学校を出ただけで、文章なんかまともに書けないんだ、という風なことを言っていた。内容なんてどうでもよくて、休み中の生活態度はまじめだったという風なことを書いてくれるだけでいいんだとすこし食い下がって説得してみたけれど、結局書いてもらえなかった。
母にそういう連絡帳の類にコメントしてもらうのは当たり前のことだったので、すこし意外に思って、だから記憶に残っているのだろう。

祖母は尋常小学校を出ただけで、豊橋の紡績工場に働きに出ていた。戦争中は軍需工場にも動員されたという。祖母もまた、戦後、天龍村に戻っていて、戦後の一時期は土方仕事もしたという。戦後、祖父と結婚することになったいきさつは、少しは聞いたことがあったかもしれないがあまり覚えていない。田舎の村の話なので、両家の都合も折り合って、世話する人もあって、縁談がまとまったということなのだろう。たぶん、すんなり結婚することになったので、特に面白い話も聞かされていないということなんじゃないだろうか。

尋常小学校は、4年で卒業だという。戦前の義務教育はそこまでだったというわけだ。

祖母が、孫の学校に出すまがりなりにも公式の書類に文章を記すことを拒んだというのは、文字を書くということに対する、敬意の裏返しなのだろうし、そこにあった強い拒絶というのは、下手な文を書くことに対する恥の意識もあるのだろう。公に対する、どこか古風な意識が祖母にはあるのかもしれない。それは、自分が尊重し尊重されるべき生活圏と、行政とか国とか、つまり「お上」というものの間に一線を引くということでもあったのかなと想像する。
ひょっとすると、中学校に文章を出すというので、学校の先生に作文のことであれこれ細かく指導された嫌な思い出が蘇ったというだけのことだったのかもしれないし、尋常小学校しか出ていないということで学歴差別をされた思い出があったということかもしれない。そのあたりのことは、あまり聞いたことがない。

さて、祖母はまったく文章を書かないのかというと、当然そんなわけではなかった。
祖母がこまめに日記の類を書いているのを見たことがあるし、年賀状のやり取りもしている。天龍村の母の実家、つまり祖父と祖母が戦後にたてた小さな平屋の家に残されていた書類を、祖父が亡くなってしばらくして祖母が整理し処分しようとしていたことがある。そのときに、戦後すぐのガリ版刷りの冊子のようなものが出てきて、それはPTAともすこし違う、母親同士のサークルのようなものが作ったもので、そこに祖母も参加していたらしい。おそらく、戦後の民主主義の流れに沿って、そういう活動が促される機運があったということだろう。
成瀬巳喜男の『驟雨』だったか、にわか仕立ての町内会の会議を民主主義的に運営しようとして、結局まともな話し合いにならないといった様子が風刺的に描かれていたことを思い出したりした。
http://www.geocities.jp/smokefree_alley/movie/naruse/15_syuuu.jpg
成瀬巳喜男:驟雨

祖母は3人子どもを生んで、3人とも女の子だったのだけど、3人目の娘は赤ちゃんの時に死んでしまったという。僕の母が長女で、父は婿養子だった。僕の叔母にあたる母の妹は、山梨県の大学を出て、東京で小学校の先生をしていたが、都内で飲食店をやっていた人と結婚して東京近郊で自然食志向のラーメン屋をしばらく夫婦で営んでいたが、後にオーストラリアに家族で移住してしまった。叔母はある種、進歩的な思想を持った人で、日本にはもう未来がない、と考えて、核戦争がおきても生き残れる平和な国として80年代末にオーストラリアを選んだのだった。

それで、今から10数年前の話。祖父が亡くなって数年後、オーストラリアに移住した叔母夫婦が、祖母を招いたことがあった。大学院生だった私は、初めて海外に旅する英語も一切わからない祖母の付き添いとして同行し、新年をオーストラリアで迎えることになった。

叔母は現地で日本語教師などをしていたのだけど、現地の知り合いに台湾系の人もいた。台湾や華僑系の人でオーストラリアに移住した人も多いのだと聞いた。叔母がそうした台湾系の知り合いの家に招かれて、私と祖母もその家を訪ねたことがあった。その台湾系の家族のところにも、台湾から遊びに来ている人たちがいて、そこに、戦前、日本語教師をしていたという台湾のおばあさんがいた。日本語で話せるのがうれしかったらしく、童謡などを僕の祖母といっしょに歌えたのが本当に幸せという様子だった。

旧植民地の人たちが、日本への憧れをまったく素直な風に表しているのに接して、僕は居心地が悪いような心地がした。どちらかといえば、日本の植民地支配は良くないことだったと考えている自分からすると、きっと苦労して台湾人として日本語教師になったこのおばあさんの日本に対する思いをナショナリズムの帰結として批判するなんて意識を自分が持っていること自体、あまりに思弁的なおこがましいことだと思うのだけど、台湾のおばあさんが「日本語が下手で恥ずかしい」ととても上品におっしゃるのを聞いていて、自分が旧支配者の民族の一員として、変な優越感みたいなものも同時に刺激されているのも自覚せざるをえなかった。
映画『非情城市』で、日本語がどのように使われていたかということを思い出したりしながら、この台湾のおばあさんが、元日本語教師として全力で日本語を上品に使っているのに対して、日本人として失礼にならないように心がけなければならないと思った。
自分は自分で、複雑な思いを抱きながら、この場はともかく、微笑んでいっしょに童謡を歌うのを楽しまないといけないと思っていた。

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その後、台湾で地震があったりもして、祖母は心配する手紙を書いて送ったりしたそうだ。その台湾の元日本語教師のおばあさんからは祖母のもとに何通か手紙が来たけど、祖母は結局文通をうやむやに止めてしまったらしい。
台湾から届いた手紙を見せてもらったけれど、それはとても丹精で、自分から見ると修辞を凝らしたものに見えたけれど、元日本語教師のそのおばあさんからすれば、一番丁寧で失礼にならないような文章が、そういう形だったということかもしれない。特別気取ったものを書くつもりではないけれど、しかしどこか緊張した様子が、文面からうかがえるような気がした。

尋常小学校を出ただけの祖母からすれば、それは返事をするのがためらわれるほど立派すぎる手紙だと感じられたのだろう。

*1:私が祖父と断りなしに書いているときは、母方の祖父のことだ。父は婿養子だったけれど、父母は父の実家の歩いて行ける距離に家を構えていた。だけど、自分は父方の祖父母とはほとんどまともに話したことがない。子どものころはなぜか不思議とも思っていなかったが、このあたりすこしばかり家族の事情がある。

*2:私の一家は、普段は天龍村から電車で一時間ほど離れた飯田市で暮らしていたが、私は、長期休暇には、母の実家である、天龍村の祖父母の家で過ごすことが多かった