「深淵の明晰」雑感

大橋可也&ダンサーズの公演「深淵の明晰」を見てきた*1。サイトに記録写真や動画などがある。
Kakuya Ohashi and Dancers 大橋可也&ダンサーズ: 「深淵の明晰」東京公演写真

次の動画はラストに近いシーン。

このラストシーンの、全員がいっせいに後ろ向きにでんぐりがえししてくるシーンが、妙に白々として空疎な印象があって、その質に何かを見出せるひとには面白い公演だったのかもしれないけれど、私には、興ざめだった。興ざめっていう言葉は、楽しめなかったということだから、作品についての評価ではなく、鑑賞経験の質を語る言葉だとすれば、それは、私に楽しむ能力がかけていたということの表明でしかないかもしれない。以下、素直に思ったことを垂れ流すのでそのつもりでお読みください。

私に不満が残ったとすれば、その最大のきっかけは、全員でえんえん後ろ向きに転がるということが、終幕の部分におかれていることで、ある種のドラマ的効果の肩透かしがある、ということが、素直に受け取りがたかったということだろうか。

それぞれのパフォーマンスの質としては、思い入れを排して、即物的に、単調にたんなる運動として、転がる、ということがなされていたように思う。

それをして見せるのに、しかし、作品全体の構造は芝居がかりすぎてはいなかったか、という疑問が残った。

おそらく、danceとtheatreとの関連、ダンス上演とスペクタクル性との問題が気にかかっていて、この上演の場合、そこが曖昧で、その曖昧さには積極性を見出せなかった、ということだ。中途半端な混合に過ぎないように思われたのだ。

dance-theatreという言葉が、danceとは別のジャンル概念でありえると、次の記事で試みてみた。

身体の変化は意識の変化を表しているのではなく、身体の運動も意識の運動も、運動として舞台にある。それが身体の形において、向かい合ったりすれ違ったりする仕方において、あるいは言葉の形を取って向かい合ったりすれ違ったりする仕方において、ある種のドラマが造形されているとき、それはダンスシアターと呼ばれる。
『すご、くない』 - 白鳥のめがね

このように見る範囲では、「深淵の明晰」の上演は、失敗したダンスシアターと呼ぶことも的外れではないのかもしれない。そういわないならば、純粋さを欠いたダンス作品と呼ぶべきかもしれない。

今回の舞台では、キャラクター性の高いダンスがスペクタクル的に示された、ということではないかと思う。その点では、演技とダンスが折衷されていたのであって、その折衷は、バレエやショーダンス的なものが開拓してきた範囲に収まっているように思われる。

個々のダンサーのダンスのそれぞれに、ひきつけられる瞬間がなくはなかったのだけど、舞台のことを思い出そうとすると、冒頭でタイヤが転がってくる場面の演出はちょっと楽しかったな、という以上のことが思い出せない。

ダンスに対してはラッピングに過ぎない部分の方に目がいきがち、というか、料理で言えば、食べ物よりも器の方に目が言ってしまうようなものだったというか、例えてみれば、そんな感想が残った。

そういうところで、何か、正確さを欠いているように思われた。

映像作品としてみると、舞台の外でおきていることを監視カメラの映像のように冷徹にスクリーンに映す画面は、なかなか凛として美しいものがあり、外でのパフォーマンスが舞台と平行する展開にある種の魅力が無いわけではなかったけれど、映像の醒めた質感の方が勝って見えるというのは、ダンス公演としては、失敗ではないかと思う。そこから何かを語りたいと思わせるものはなかった。

上手側から斜めに射す照明のデザインや、天井に並ぶ蛍光灯の明滅も、それなりに面白い効果を出していたとは思うけれど、まあなんかかっこいいことしてるな、という以上の感想はない。

ある種のショーとして、気まぐれな観客の好奇心を満たすには、十分だったかもしれないが。
そんな風な言葉がつい漏れるのは、様式化し制度化した芸術にありがちなある種の退屈さ、クラッシクなバレエや音楽が惰性に陥ったときに見せる退屈さが、この舞台にも、感じられたからだ。

私の記憶には残らないと思う。

*1:ご招待いただいたので見に行った。