実験ユニット「人間ラジオ2」を見た

手塚夏子のアーカイブ Natsuko Tezuka's archive: 人間ラジオ 2
上手客席手前に照明卓があって、照明家(中山奈美)も舞台上の条件を見ながら照明を変えていく。よくあるように天井に照明がつられていて無色の光を投げかけているほか、舞台四面中央に(客席側は客席の奥に)小型の照明と横長で大き目の表札といった感じのLED照明がワンセットずつ設置されており、LED照明は天井と床面にも、ちょうど客席も含めたディープラッツの空間の中心あたりに、ひとつずつ置かれている。それと、一本、チューブ上の半透明のものが伸びていて、これは後半、ある種のイルミネーションのように何色かの原色が点滅する。

舞台に出たスズキクリと手塚夏子と中山奈美の三人はTシャツ姿の普段着といった装いで、音楽家も照明家も必要に応じて舞台を横切ったり動き回る。音楽家は同じ型のポケットに入る銀色のポータブルラジオを音楽家がひとつひとつチューニングして舞台のあちこちにおいていく。最大で7個ばかり同時に舞台に置かれた。音は小さく、複数の音が出ているのかもしれないが、どれかひとつの局の音しか意識されない感じだった。規則的というのでもないが、弧を描くようであったり、舞台を囲むようであったり、ラジオは散在させられていて、舞台上の音響を少しずつ変化させている。舞台の進行に合わせて、ゆっくりとラジオが増やされていき、位置を時折変えたりしている。チューニングしているときだけ、音が大きくされて、一瞬舞台に騒音が立つことがあった。それから、時報のときには、複数の音がそろって微妙なハーモニーを奏でていたようだ。ラジオが小道具として使われていたことは、「人間ラジオ」というコンセプトにとっては本質的な選択ではないようだ。

手塚夏子は、いろいろなパターンで、舞台をぐるっとまわってみせて、席に戻る、ということを繰り返していた。意識の集中を何度かリセットして、あらたなセッションに臨むということを繰り返したようだ。めがねを手にしていたり、盆踊り風の振りをしてみせたり、ペットボトルを持って、時折飲んで見せたり。

正面のLED照明が激しく明滅したあと、「ではそろそろアフタートークをします」と手塚が声を出して、公演が終わった。

アフタートークで聞いた話によると参加した3人は前回の「人間ラジオ」と同じだが、今回の方が三人でのコラボレーションとしてコンセプトを共有していたということだ。照明家も含めてこれほど対等にライブパフォーマンスがなされるのは珍しいと思う。全てが明らかというわけではないが、誰が舞台の条件をどのように変えているのかが、その装置も含めて、ほとんど舞台上に明示されているのも興味深い。その上で、何が見えていないかも、逆に、より鮮明になっているというべきだろう。

人間ラジオの最初のバージョンは、「道場破り」の企画で外のダンサーの体を意識する仕方を模倣するという試みを繰り返していて、身体を意識する可能性は、自分が思っても見なかった広がりを持っていることに驚き、いつもあわせているチャンネルとは別のチャンネルに合わせることもできると発想したことから生まれたという。
今回は、その最初のバージョンとは異なり、チャンネルにあわせようとして、合わせきってしまわない、というような試みをしたとのこと。体に対する条件を変えながら、そこから生じることすべてをダイレクトにリアクションとして返さない、というようなことをしていたようだ。そういわれてみると、「プライベートトレース」の時よりも、動きは抑制されていて、微細な動きが断続していたようにも見えた。

照明の中山さんは、実験的なことをあえて観客を前にして行うことの意義を、正直すっかり納得してやっていたのではない、という風なことを言っていた。それに対する手塚さんの返答がとても面白かった。同じことをひとりでやろうとしてもモチベーションが維持できない。観客は可能性の海みたいなもので、深いレベルもあれば浅いレベルもある、客層によっても反応は変わってくるのだけど、お客さんによって、表向き見たいと思っているものがじつはどうでもよくて、本当に見たいものは無自覚の何かだということもあるかもしれない、自分が行うことによってどんな反応が返ってくるのかということも含めて、伝わらないことと伝わることの違いも含めて、実験したいのだ、という風なことをおっしゃっていた。これは、ライブで行われる上演行為が、観客との創造的なコミュニケーションとして成り立たなければならないということを、とても適切に認識している言葉だと思える。実験を重ね、自分の身体への意識の集中を極めようとすることが、自ずとコミュニケーションの場に思考を開いていっているみたいで素晴らしい。

手塚さんの探求を、あえてダンスといわなくても良いような気がしている。それは、様々なダンスやパフォーマンスがそこから生み出されてくるような、見られる身体に意識を集中し、身体がどのように動くことができるのかの一般的な条件の場を精査するようなことだ。恣意的に様式化を施す前に、そこから様々なものが汲み取れる源泉へと深く深くもぐりこみ、そこからどこまでも身体が現れる場に戻ってこようとする。その運動から生まれてくる動き自体は、ほとんどノイズに近いような震えなのだけれど、その動きには、恣意的な計算からは生まれない豊かさや、瑞々しさがあるように見える。その質について、事細かに描写することに、あまり意欲が沸かないので、色々な感想は別に書かないでおく。自分が鮮明に想起できるきっかけは残しておきたいきがするが、それも作品受容において本質的ではない気がする。たぶん、この場に居合わせたことで、舞台を見る視線はどこか変容したはずで、それがどう変わったか自覚できないにしても、それだけで十分だ、とも思う。

創造的であることと自発的であることは切り離せないが、自発的であれば創造的であるというわけではない。ほしいままに身体を動かそうとしても、見えないルールに縛られているだけで、本当の意味で創造的にはなれない、というのは良くあることだ。そして、創造的でなくたって十分楽しいと思える場合も往々にしてある。しかし、創造的であることの喜びには他に代えがたいものがあり、本当に創造的である条件を探ることは困難に満ちている。

手塚さんは、そんな自発性の罠を逃れてパフォーマンスにおいて創造的であるための独自の方法を貫いて、未踏の領域に進まずにはいられないようで、そのこと自体においてとても創造的であるように見える。客席は、その踏査に創造的に随伴しようとするすべての人のために、空けられている。

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http://homepage1.nifty.com/mneko/play/TA/20090725s.htm
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