『セインツオブ練馬』/戦後偽史と邪気眼妄想-++

はい。ロハ下ルの「セインツオブ練馬」。見てきました。只でもないし、下らない。でも満足して帰ったのは演技が良かったからですね。

スロウライダーは一度も見たことなく、山中隆次郎の作・演出を初めてみる。今回「ロハ下ル」に名義を変えて初の舞台ということ。伊東沙保さんと山縣太一さんが競演するということで見逃せないと思った(この二人、チェルフィッチュの『フリータイム』でも競演してヨーロッパツアーしている)。

ともかく伊東さんの演技がすばらしい。登場人物の弱さを繊細に、振幅豊かに造形している。心理劇として完成の域に達している*1

山縣太一さんも、『エンジョイ』などで見せたいやらしさ、いかがわしさをこれまた見事に放っていて、猫背具合といい、役柄にマッチしていた。

美術、照明なども力の入ったもので、ウェルメイドな伝奇ドラマにリアリティを添えている感じだった(個人的な趣味で言わせてもらえば、そんなリアリティに金を払いたくはないが)。

戯曲は、いくつかのシーンのディテールが見事なのに対して、全体の構想は弱いものというべきだ(その弱さをどう評価するかが問題だとして)。以下、作品の結末に触れつつ作品について考える。



舞台装置は練馬の裕福な家の土間に続く部屋という感じだったが(天井の上に通路が設けられていて、家の外の場面に使われる)、下手の壁にしつらえられたドアが台形にゆがんでいて、柱や梁も斜めになっている。『カリガリ博士』の表現主義的意匠を連想させる。ある種の怪奇趣味を匂わせるが基本的にはリアリスティックな舞台だ。

物語は、『リング』のモチーフになった千里眼事件を2次創作的になぞった話。ただ、舞台が戦後すぐの練馬に置き換えられている。

兄を虐げ妹を溺愛するというゆがんだ教育を施した父の死後、病床に寝込んだ母親と兄妹が残された。軍需物資で成金になったその一家に周囲の(練馬の)村人は「村八分」的に一家を遇している。妹は父親の溺愛の結果、自分は特別な存在だと思い込んでいて、超能力的な治療を行うようになり、「千里眼」実験(劇中では「神人(じんにん)」と呼ばれる)に巻き込まれていく。しかし、その「千里眼」実験は、兄が仕込んだトリックだった。そのことを知らずに踊らされた妹は破滅していく。

まあそういうストーリなわけだけど、兄と妹との葛藤のドラマは緻密に描かれ心理劇として巧みに演じられていくのに対して、その背景がみごとにジャンクでしかなく、劇の構造としては、置き換え可能なものになっている。「村八分」とかはプロットに対して言い訳程度にしか機能しておらず、劇的な構成の添え物でしかない。そういう劇にとって添え物でしかない設定の描写が何故かこまごまと重ねられていく。
しかしそれは半ば意図的なものであるようだ。

当日パンフレットで山中隆次郎自身がこう述べている。

今回は、時代考証を極力せずに戦後間もないころを想定してつくってみました。/が、特に戦後史に興味もなく、コスプレ感覚です。

まず、明治時代の千里眼事件をなぜ戦後すぐに置き換えているのかという問題がある。

千里眼を持った人が「神人」と呼ばれるという劇中の設定は、その裏設定として、実は太古から特殊な能力をもった一族「神人」がいて、その「神人」を抹殺する組織が暗躍している、という話が織り交ぜられる。これは、妹を脅かす装置として劇中で機能する。

夢枕獏とかの小説なんかにもありそうなプロットで、いかにもライトノベルみたいな設定になっているわけだ。
世界に散った神人がその特殊能力で各国の軍に協力していたなどと語られる背景は、『終戦のローレライ』とか、その辺の設定を流用しているわけだ。
いわゆる、「大きな物語」の失効みたいな話で、戦後史を参照しながら伝奇的な偽史を語るわけである。

が、説話論的に言って、伝奇SF的にチープな妄想によってメシア願望に執着する物語として先行する最大のものは、三島由紀夫の『美しい星』だろう。私見では、『美しい星』で語られる偽史を本気で描く三島由紀夫の想像力は文化防衛論と地続きだろう。

戦後史に興味がないと作家は言っているが、これは韜晦だろう。戦後直後に想像力が刺激される理由がどこかにあったはずだ。作家がどれだけ無知であるか度外視して考えれば、この作品の想像力に力を注いでいるもののひとつは、天皇制である。

劇中に登場する東大の心理学者が、昭和天皇と同じ誕生日であり、彼自身、ゆがんだメシア願望のようなものを抱いていると語られる。そして、大衆はメシアを犠牲として求めるのだというような思弁が語られもする。しかし、この点は掘り下げられない。

触れることはできても、劇的に構造化することはできない、その点で、天皇制が問題として扱えないという漠然とした雰囲気の上に、この作品の偽史があると思う。

もう一つ、作品が偽史的に変換しているのは、戦後の左翼運動とレッドパージなどの歴史だ。天皇制を廃止すべきだという世論が戦後直後には大きな力を持ってもいたのだが、その記憶の隠蔽が、千里眼実験や「神人」の水面下での抗争に変換されている、と読めると思う*2

戦後すぐに流行っていたのは「千里眼」ではなく左翼運動なのだ。つまり、政治的な進歩による「解放」という、大きな物語の失墜が、サブカルチャー偽史に変換されるということ。

松川事件下山事件などの「戦後史の闇」が偽史に変換されているともいえるだろう。この作品で米軍の影が執拗に提示されるのも、理由のないことではないと思う。

こう考えるのは、『動物化するポストモダン』の東浩紀の整理に従えば、もう乗り越えられた「シニシズムスノビズム」段階の想像力に作品が駆動されていると解釈することになる。

私自身は東の時代区分が正しいとは思わないが、戦後史を偽史として埋め合わそうとする欲求について東が語ったことには一面の真実があるとおもう。東は、もはやそのような偽史が必要とされない時代になったと診断しているが、偽史を求める想像力のあり方は今も強く作用しているだろう。「セインツオブ練馬」は、その一つの例だと思う。私は、「戦後的」な状況は、米軍駐留が続く限りは、執拗に想像力に付きまとい続けるだろうと考えている。

あるいは、この作品の戦後偽史も単なる設定にすぎず、置き換え可能なものだ、という批判がありえるかもしれないが、的を外しているとおもう。それなら、設定は明治時代の方が自然だったのだし、別に未来でも良かったことになる。言い訳をしながら戦後を舞台にする作家のモチベーションはなんだったのか、考える余地がある。

舞台のエピローグで、未来予知をした「妹」が、「これからの世代は怪物になる、私たちがその最初の世代だ」と言ったと報告されて暗転、作品は終わるのだが、これは、舞台の虚構と観客の現在をどこかで結び付けたいという作家の意図があるのだろう。作品は「今から50年前の話」という語りから始まる。

ここでは、現実そのものを虚構のうちに取り込もうというような劇作家的構想が働いているとも言えるかもしれない。しかし、作家は、ここで、現在を解釈するものとしての歴史感覚に訴えていることも確かだ。それが偽史となることついて注釈すべきことは残されているとしてもだ*3

この作品は、今の若い世代に、1955年以前の歴史が、いかに見えなくなっているのか、実感から遠くなっているのか、を反映してもいるだろうが、しかし現在の起源に敗戦があるという認識が、感覚レベルで引き継がれていることも確かだろうと思う。

そういえば、伊東さんはポタライブの『界』で、練馬の地誌の古い記憶に触れるような作品を演じていたのだった。今回、練馬を舞台にした偽史のヒロインになっているのは、ちょっと皮肉だな、と思った。
ワンダーランド wonderland – 小劇場レビューマガジン

練馬をあえて舞台にしているというところも、現在の東京と地続きのものとして、古い村落共同体を扱いたかったということなのだろうか。

(追記)論旨をはっきりさせるため若干加筆。あと、舞台の様式性についても付言した。まあこれで論点は出し尽くしたかな(7月5日)

*1:いつか、ラシーヌの悲劇とかに挑戦してほしいと思った。日本語の翻訳に限界があっても、伊東さんなら命を込められると夢想した

*2:このあたりの戦後史の知識を私は主にジョン・ダワーによる歴史記述に追っている。ダワーの『敗北を抱きしめて』については、次のエントリーで触れた。キモいと日本人があまり言われなかった理由++ - 白鳥のめがね

*3:おそらく、主人公たちの振る舞い(すぐにキレて殴りかかるとか)は現在の20代後半から30代前半の世代の感覚を託されている。作中の「妹」が特別でありたいと思う妄想にすがっていくこと自体も、同時代的な状況を寓意的に語ろうとするモチーフなのだろう。たとえば、「セインツオブ練馬」のストーリーを、タレント願望を抱いた女の子が性産業に搾取されていく物語として読み替えることもできる。その場合、「練馬」とは、「空気」が支配する日本的共同性を寓意的にあらわすものだということになる。いずれにせよ、どこまでも、現実を前提として虚構の効果が考えられていることの意味について注釈する必要がある。現代口語演劇以降の成果を小劇場演劇的な劇場慣習(convention)に折衷して見せたこの舞台の演技や演出の様式についても、その観点から注釈すべきだろう