『寛容のオルギア』雑感/衰え方を学ぶ必要+

ヤン・ファーブルの舞台を実に15年ぶりに見てきました。ヨーロッパ人が衰弱においてどう生きようとしているのか、そこから学ぶべきものは多いと思いました。
http://14.media.tumblr.com/W1NkeyOrfo89ugiccxzQCJ2lo1_500.jpg
東京アートパトロール : ヤン・ファーブルの新作「寛容のオルギア」
asahi.com(朝日新聞社):ユーモアで現実社会射抜く ヤン・ファーブルの新作 - 演劇 - 舞台
前回見たのは94年の『時間のもうひとつの側』という作品*1。これは、個人的には今までみた舞台のベスト5に入るくらい衝撃を受けた。あの頃、ボッシュとかルーベンスとかフランドルの絵画史的伝統を引用してるんだなと思って、帰りの電車でたまたま会場で一緒になった大岡淳さんとそういう話をしたのを鮮明に覚えているけど、今回のアフタートークでファーブル氏がそういう話をしていて懐かしく思った。

というわけで、この上演も、94年の来日公演と比べながら見ていた。そこで思ったのは、15年の間に、世界は大きく変わったし(当然だが)日本とヨーロッパの関係も根本的に変質したよな、ということだった。

この作品では、ほとんどの場面、出演者たちがテロリストを象徴する銃を肩に下げている。巨大なスーパーマーケットを思い起こさせる金属フレームのカートも象徴的に使われていて、途中で妊婦に扮した女性パフォーマーたちがカートにまたがっていきんで、分娩するのが商品だった、というシーンがあって、新たな生命の誕生という場面すら消費されてしまう、私たちの生そのものが交換可能なものでしかない、というアイロニカルな寓意は明白なのだけど、そこでも銃を肩にかけていて、グローバルな大量生産消費社会がテロリズムとの共犯関係にあるというか、リスク管理社会において、テロも消費も識別不能であるというようなことも言われている。
いや、そういう内容は、ことさら目新しいものではない。問題は、それをあえて舞台に表象してみせることの意味だ。

この舞台を別の日に見た知人のひとりが「想像力があれば誰でもわかることしか舞台に描かれない」と言っていたけど、その通りだと思う。しかし、それをあえて行うことは無意味ではなかったと思う。

舞台は、オナニー選手権ショーみたいな露悪的な風刺の場面から始まる。寓意は明白で、当日パンフレットで藤井慎太郎氏によるインタビューでヤン・ファーブル自身がその寓意を明かしている。性産業と生政治的権力によって守られた日常で報道される暴力を安全に見ている一方で極右政党が勢力を伸ばすことにも寛容である、といった自由主義的民主主義社会のアポリアをこれでもかこれでもかと寓意していく。くどいくらいの寓意の連発は、おそらく、現代社会を解釈するという意味の過剰を逆に飽和させ相殺させてしまう*2

まあ、ポストモダニストが退屈しながら言いたいことはわかったよ、とアイロニカルに歓迎するみたいな舞台ではあったのだけど、この舞台は結局単に美しさを求めているのであって、いわばアイロニーを消尽した果てに、美が可能になる場面を生み出そうとしているのだ。退廃において美を享受することを肯定する一点においては、舞台はアイロニカルではない*3

http://pds.exblog.jp/pds/1/200906/04/31/f0129431_1205613.jpg

個人的には、スーパーマーケットのカートを使ったダンスシーンを楽しくみた。ある種のミュージカルのような、カートを動物に見立てた振りもあるダンス。で、ラスト、それまで不毛なセックスとか性における服従の関係とかをさんざん露悪的に見せた後に、女性がまたがったカートのおしりに次々とカートが挿入されていくのがラストだった。まあそうやって収納される機能を寓意に転用して見せているのだけど、そういう戯れが、マーケットに接続された消費機械としての身体における享楽をショーアップして肯定しているみたいにも思えたのだ。商品を食べて、商品をひりだしている私たちって、別に惨めな生き物ってわけじゃない。

でも、これもまたすべて教養の範疇に収まるものである。
ヤン・ファーブル自身がアフタートークで60〜70年代の舞台芸術の様式を参照している、と言っている。

たとえば、パフォーマーが舞台前面に並んで、日本人観客が罵倒される場面があったが、ペーター・ハントケの『観客罵倒』もすでに演劇史の参照項目として「教養目録」の中に登録済みなわけだ。

ハンス・マイヤーは60年代にすでに「アウシュビッツ以後もう詩は成立し得なくなっているというアドルノの怒りの言葉はあまりにたびたび引用されたので、どうやらすでに《本来性の隠語》の一つになってしまったようだ」と皮肉りながら「あらゆる演劇形式はすでに十分吟味されてしまった」と述べていた。*4

しかし、人類史上あらゆる倒錯が十分行われてしまったからといって、倒錯に快楽を求めることが無意味であるということにはならないのと同様に、あらゆる表現形式の効果が試みられてしまったからといって、それらの形式を用いることが無効になるわけではない*5

90年代中ごろには、ヨーロッパのアイデンティティを歴史的に参照しながら、舞台の最先端にあるものとして、ヨーロッパから来日する舞台を享受することもできた。もう、それも昔の話だ。

ヨーロッパにおいてすら、もはやヨーロッパのアイデンティティが成り立たないということを前提にしないと、舞台芸術は成り立たない。その衰微する姿が舞台にあられもなく示されていたのがこの作品だったと思う。

日本も、これから成長する国に囲まれて、社会として少なくとも相対的に衰えていくのは間違いない。文化的な先進性を誇る位置から衰微していったヨーロッパから学ぶべきものは多いだろうと思う。

近代的な舞台芸術の理念に基づいて、美術史や上演史を参照しながら新作を作り続けるという営みがすでに、伝統芸能みたいなものになりつつあるんだな、と思う。
でも、それは無意味じゃない。芸術家と鑑賞者という近代的な主体の単純な擁護でもないとおもう。そして、単なるスノビズムでもないと思う。そういう手続きを踏むことによって享受できる、ある種素朴な喜びはある。

舞台上で最高に愉快だったのは、倒立させた自転車の車輪をまわしてスポークにふにゃりとした男根をすりあててみせる場面だったけど(はじかれたペニスもくるくる回りはじめる)、そんな風にもはや刺激にあまり感じなくなった性器をすり減らしたとしても、素朴なふれあいの喜びが消えてしまうわけではない*6


アフタートークで「人種差別的な罵りがいっぱいあって、正直とまどったのだけど、何が言いたいのか」と若い女性がヤン・ファーブルに質問していた。ファーブルは「俺たち白人サイコーっていいたいんだ」とかおどけてみせて「まあそれは皮肉で、誰もがレイシスト的感情を抱くものだ、それをオープンにすべきだ」とヤン・ファーブルは言っていた。それでも女性が「そんなことを舞台に見せて何が言いたいのか」と食い下がると、ファーブルは「示すだけじゃなく、観客に火をつけたいのだ」*7と答えた。それに女性は「だったら成功していたと思います」と言ってファーブルが「ありがとう」と返す場面もあった。

とても素朴でほほえましいやりとりだったけど、舞台では、こういう交流も生じえるということに立ち会えて、単純に幸せな気分になった。

(蛇足)
ぜんぜん関係ないけど、家の近所でレクチャーしてたんか。行ってみたかった。 http://www.koukaikouza.jp/Lecture/e-23577.html

(追記)
下記の舞台評は、自分が十分見ていなかったものを明らかに浮かび上がらせてくれて、とても有益でした。

消費社会やグローバリズムをまな板に載せるなら、焦点を当てるべき問題はもっと別のところにあるように思えた。いったい、人々はそんなに駆り立てられているのだろうか? 欧米のある階層ではきっとそうなのだろう。でなけりゃ、リッツィがあそこまでやるはずない。という思いが、このパフォーマンスの自分にとっての辛うじてのリアリティとなっている。
http://ine.way-nifty.com/daypack/2009/07/post-a4d3.html

さすがだな。稲倉さん。

*1:次のサイトにチラシがアップされている。懐かしい。http://home.catv.ne.jp/nn/asukai/dance/dance93-94.html 「豪雨の如く降り注ぐ大量の皿の暴力的なラストシーンが忘れられない」って武藤大祐さんも書いているね。http://members.jcom.home.ne.jp/d-muto/review/JanFabre2006.html 桜井圭介が「フランクフルト・バレエのダンサー使って作ったじゃない。そのとき、彼は全くのシロートだから、まずバレエダンサーの日常のエクササイズ、バー&フロアのレッスンを観察(昆虫観察みたいにね)することから始めたんだと思う。」って持論を展開してるけど、「シロートだから」って推測かよ! http://www.t3.rim.or.jp/~sakurah/kodomonokuni.html ここで桜井が昆虫観察って言っているのは、昆虫記のファーブルとの血縁をほのめかしたペダントリーです。

*2:この点では、ソンタグの『燃え上がる生きもの』についての評論を参照しても良いだろう。「ポップアートと呼ばれる作品で最良のものは、芸術作品に描かれているもの―あるいはさらにかくちょうして人生で経験されるものを是認するかさもなければ否認するかのどちらかを必ず行う昔ながらの流儀を捨てることを、まさに目的にしているのだ」反解釈 (ちくま学芸文庫)

*3:キリストすら消費の対象というのは、ジョン・レノンが「ビートルズはキリストよりも有名だ」って言ったという逸話を思い起こさせるものでもあるけど、現代のヨーロッパでキリストというイコンをどう扱うかって言う点では、先日来日したプラテルの舞台と比べてみても良いかもしれない。http://d.hatena.ne.jp/yanoz/20090419/p1

*4:参照:ハンス・マイヤー「教養、財産と演劇」『ハプニングと沈黙―現代文学の可能性』所収

*5:ハンス・マイヤーは前掲の論文で、上演芸術が「遊び(Play)」であることに、上演芸術の尽きせぬ可能性を見ている

*6:参照:藤本由香里インタビュー記事「前躯快感っていうのがあるの。最終的な快感=性器的な快感に行く前の、くすぐるとかちょっと触るとか抱きしめるとか、そういうようなものね。/このあいだ小倉千加子さんが早稲田大学でやってた「セクシュアリティの心理学」っていう公開講座で言ってたんだけど、いまでこそ前躯快感は最終快感に至る前の前戯みたいなことになっているけど、実は前躯快感こそが人間の本質的なエロスであって、性器的な欲望なんていうものは人生のある時期にちょこっとだけある副次的なものに過ぎない、と。近代は前躯快感的なエロスを過小に評価してきたんじゃないかというの。」http://www.tinami.com/x/interview/10/page4.html

*7:通訳のひとはそう訳していたけど、英語でtriggerと言っていたと思う。