『五人姉妹』雑感/現代日本という泥沼であがいてみせること−

吉祥寺シアターnibroll矢内原美邦が作・演出・振付した『五人姉妹』を見に行ってきた。基本的には全編モノローグの喜劇*1である。複数人が出てきても構造としてモノローグになっている。全体にノスタルジックな調子だが、現代日本のある種の閉塞感を寓意する舞台と言っていい。



nibrollファンだった思い出

矢内原美邦が手がける舞台を見るのは、『3年2組』以来。『3年2組』については、3年2組 - 白鳥のめがねでかなり批判的なことを書いた。あの公演をみて、もうこの人が作る舞台は見なくても良いと思ったし、今回も知人からチケットを譲ってもらわなければ、見に行かなかった*2

『3年2組』について書いたことを読み直してみて、訂正の必要を感じない。基本的には、今回の舞台についても、同様の評価をしている。だから、前半はすっかり退屈して、早く終わってほしいと思ってみていた。すぐに帰りたかった。

だけれど、結局最後まで見た理由のひとつは、途中で韓国人に対する差別的言辞とか、韓国人や中国人とまちがわれたくない日本人のプライドとかいう話が始まったので、ちょっと不快になって、その話がどう回収されるのかを考えながら見るようになったからだ。

登場人物があからさまに差別的であっても、それが差別を推奨しているとは限らない。そういう点では平田オリザの『ソウル市民』が差別を主題に描くモノローグ的喜劇*3として、観客に批判を唆し、反省をゆだねているのと同様である。

『五人姉妹』では、韓流ブームを風刺するみたいに、かっこいいお金持ちの韓国人と結婚する女が、キムチを素手で漬けられさせて手が臭くなったとか、そういう話をする。向こうの伝統とかに合わせるのは大変と思ったけど、向こうのお母さんはゴム手袋してキムチを漬けてたからイジメだったのよ、とかそんな話をしながら、でもその韓国人が好きだから結婚するの!とか言う。婚活みたいなものも風刺されている。

しかし、『五人姉妹』で示された「日本人であることのチンケなプライド」というのは、作者の実感に裏打ちされているようにも思う。

いまとなっては誰も思い出さないかもしれないが、私はアヴィニヨンとポートランドとサンフランシスコまで追いかけてニブロールを見たほど一時期はnibrollに入れあげていたので、矢内原美邦という人のキャラクターを少しは知っている*4

この舞台に登場する人物の、突発的に暴力をふるったり、落ち着かなかったり、急に苛々したりする様子を見ていると、矢内原美邦さん本人のイメージと重なってくるところがある。

おそらく、差別感情みたいなものが解剖されて露呈されるような展開は、差別の禁止の徴の下にある。差別は良くないと信じているから、差別が主題化される。舞台の上では無自覚に差別感情が吐露されるように描かれていたりしても、それを問題視する自意識は舞台に張り付いている。
差別の禁止という頭で信じていることが、他の民族に対する優越を求めるような自意識の構造を主題化させていくわけである。ここで差別の禁止に抵触するように浮かび上がってくるのはアイデンティティであり、作家がこだわっているのは、禁止されたり評価されたりする以前の自己同一性の根を探り出すようなことだ。

たとえば、宮崎駿の『未来少年コナン』にショックを受けるほどのめり込んで見たという経験を、同世代として、僕は矢内原美邦さんと共有している。

女系の富裕な家族の大邸宅にこもった五人姉妹が、叔母や母を死で失って、しかし遺産によって今後も生活には困らない、そんな設定で、「ガーリー」な衣装に身を包んだ「アラサー」の女たちが、結婚に憧れたりしてキャーキャー騒いでいる*5

そんな心象風景をナンセンスに高スピードで展開する舞台を見ていると、70年代に幼少期を送った者が蒙った時代の痕跡が、昔遊んだおもちゃを押入れの奥から引き出されて、それに内向きのノスタルジーに浸りながら、半ば自虐的な感傷に浸っているみたいな、そんな感覚に舞台が満たされているようだなと、思ったりする。

回顧的に自己同一性のなかに戯れることが、抜け出せない泥沼でのたくっている、そうやってのたくってみせることが倫理的禁止の徴の下で、のたくる努力が倫理的な問題*6の問題化として正当化され、社会的な有意義さを担保してくれるかのように装うことを許してくれているが、しかし、そんなものが装いであることもわかっていて、承認されない叫びを掬い取らずにはいられない。

これは、戦後民主主義的理念がトラウマのように記された最後の世代の記憶が白鳥の歌になりそこねたまま真綿で首をしめられている様子なのだと思う。

セノグラフィーと舞台表象の詳細についての注記

(A)
ダンスについては、見たことのあるものだなと思って注視しなかった。様式としてのまとまりが強くなってきていて、パフォーマーの技量にあまり無理な注文を出してはいないようだ。
演技とダンスが重なり合う独特の領域については、振付の問題と演劇としての問題の双方から考えてみるべきだろうが、私から見ると、いかにも70年代的な折衷*7の後、日本の舞台芸術や公共的な表象を覆い尽くしているような、たとえば「遊◎機械/全自動シアター」などの80年代小劇場がそれに加担したような、シアトリカルなConventionの範囲にますますしっかりと根を張っているように思える*8。そのConventionへの対抗が90年代の舞台芸術を動機付けていたし、現在もなおその強固なConventionに対抗する動機は生きているはずだ。
単純に言って日本のほとんどの舞台芸術がダサいのは、そのConventionにはまっているからで、欧米の洗練されたモダンなセノグラフィーと日本の鄙びたセノグラフィーの違いがそこにある。そのConventionの批判は、たとえば梅本洋一の『視線と劇場』などが先鞭をつけたのだろうが、未だに十分に批評/批判されてはいないだろう。おそらく、その根は、社会主義リアリズムの日本的な受容にまでさかのぼることができると思う。省みられていない歴史が多すぎる。

矢内原美邦が様式をすり減らして行った先に、何かそういったConventionの臨界を越えるようなものが出てくるのかどうか、まだわからない。

(B)
床への映像の投影を見ていて、プロジェクターの技術もnibrollが出始めのころからは進んだのだろうし、プロジェクターに金をかけられるようになったということだよなあと思う。映像はモノクロを基調にしていて(ノイズ主体の音楽もモノクロという印象ではある)、それが衣装や装置の色彩設計に重なっていく*9

(C)
この舞台は、白というかベージュというか、そういう色彩を基調にしてはじまって、そこに一点アクセントとして赤が表れているのだが、それが危機的な瞬間をイメージさせるものとして伏在していて、喪の黒を登場人物のひとりひとりが身にまとって行き、全員が喪の徴を帯びたところで舞台が終わる。後半、舞台は時折闇に覆われる。この色彩設計はカラックスの『PolaX』に重なるコンセプトだと言える。主題的にも、カラックスの『PolaX』と説話論的な道具立ての点でほとんど同一のものの変形になっている。そこで、フランスと日本の帝国としての経験の違い、そして男女の経験の違いが、変形を蒙らせるパラメーターとして作用している。多少努力すればその視点から演繹的に分析しつくすことができるとして、私はむしろ分析の残余について語りたかった。

(追記)セノグラフィーについての欧米/日本の対比は図式的には間違いだとも言い切れないとは思うけど、西洋と日本の位置づけにちと問題あると思ったので訂正したい。この点あとで補足します。

*1:喜劇というのは、ベルクソン『笑い』に示されるような、古典的な定義においてそう言える。

*2:『3年2組』の映像などは次のnibroll公式サイトで見られる。http://www.nibroll.com/

*3:ノローグ性と喜劇性ということについては、機会があれば別に分析的に展開してみても良いかもしれない

*4:私は『ボクロール』を最後に、nibroll作品を見るのをやめてしまったようだ。http://d.hatena.ne.jp/yanoz/20050828/p1

*5:武藤大祐さんが、矢内原美邦の舞台に現れる少女的なイメージや、言葉の貧しさについて批判的に語っていたことがあるが、おそらくそれを解消してしまったら、矢内原美邦に舞台作品を作るモチベーションは残っていないのではないかと私は疑っている

*6:山形浩生が言う「何やら「問題」を描きだすことにある」ものとしての文学という「問題」に、言語芸術としての演劇も直面していていて、同じような、問題を主題化しなければいけないという義務感みたいなものに矢内原美邦の演劇作品も関わっていると思う。ただし、洗練されてもいないし、スノビズムでもない。その手前にあってもがいているという印象がある。参照:http://cruel.org/cut/cut200402.html

*7:それは60年代的なラディカルの後に余儀なくされた必然性を欠いた総合とでも言うようなものだ

*8:ここで言うConventionは次の意味。エスリンの『不条理の演劇』のキーワードでもある。Convention (norm) - Wikipedia

*9:ただ、時折照明によって色彩が加えられた点をどう考えるかは保留して、以下モノクロを基調にしていることを中心とみて図式的に語る