人文的教養と軽蔑+

書評を読めばダメな理由がわかる―二つの「知」と古臭い感性+8 - 白鳥のめがね
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について。

次のような言葉が出てくる。

自然科学者たちの、研究対象に対する畏敬の念は、門外漢にも伝わらずにはいられない。彼らを研究へと突き動かす力は、非科学的と言っていいほど感情的で、そしてその感情が畏敬である。私が知る限り、例外は一人もいない。

むしろ研究対象との「間合いの取り方」は、人文学者の方が「科学者然」としているようにすら思える。量子力学以上に、客観性が成立しづらい状況がそうしているのか、単に人文学者が鼻持ちならない人々なのかは無学者たる私にはわからない。が、少なくとも自然科学者からびしばし伝わってくる、あの研究対象に対する呪術的ですらある畏敬を、人文学者たちから感じ取ることは稀である。
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一般に自然科学の研究者の研究動機を「研究対象に対する呪術的ですらある畏敬」と形容するのがどれだけ正しいかは疑問だし、そして、どうしてそんな風に思い込めるのかも考える余地があるだろうけど、それはここでは置いておく。まあ、思想史的に注釈しておくべきことだろう。

ただ、「人文学者が鼻持ちならない人々なのかどうか」という問いは、ちょっと考えてみる余地があると思うし、小飼弾がそういうことを書きたくなる気持ちもわからないでもない。

実際、たとえば柄谷行人とか蓮実重彦とかいった人が書いたものには、ある種の人を軽蔑するレトリックが出てくる。「ポスコロ・カルスタ」とか「制度的知識人」とか。フーコーも、スタイナーを思いっきり軽蔑してみせたことがあったそうだし*1

自分の立場が優れたものであると、他の誰かを軽蔑する姿勢でもって示してみせるレトリックというのは、人文的な教養の世界で広く読まれた本のなかにたくさん見つけることができるんじゃないかと思う。それで、実際、巧みに軽蔑してみせる仕方を覚えるのが知性を行使することだと思い込んでしまったかわいそうなひとに会ったこともある。

まあそもそも、人文的な教養というものがその出自からして、野蛮なものとか、教養に欠けるものとかと自らを差別化することと切り離せない仕方で成り立ってきたものであるとはいえるだろう。20世紀には、そのことへの批判が文学研究を再編してみせたりもしたのだろうが、逆にそういう教養の再編を受けて、「人種差別主義者」という言葉が軽蔑のための用語として使われるようなことにもなったわけだ。

そして、自然科学がそもそも研究対象となる現象を細分化し確定し限定していくことによって成り立つものであること、そもそも自然の全体を全体として研究したりはしないこと(斉一性が前提されることはあれ)に留保するとしても、まあ大体、そもそも自然を軽蔑することはできないのだ。

火山の噴火に畏怖したり、災害なり公害なりの結果を甘く予想することはできるにしてもだ。

人文的な教養が「人文科学」として組織されるにしても、人を相手にする所で、尊敬と軽蔑がセットになってしまう所に、人文的な教養が教養であるゆえんがあるのだろう。

20世紀の人文系の学問は19世紀的な実証主義とか、価値自由の理念とかを乗り越えるところに成り立っていただろうし、そもそも小飼弾の話は、そのへんのいきさつをすっとばしているのでお話にならないわけだけれど、小飼弾があえて「鼻持ちならない」という当てこすりを書くとき、人文系の学問が人を相手にするものであるところに生じる、このような機微に触れてはいるのだろう。

どこかで、人文科学は尊敬や軽蔑というものと縁を切れないものだと思う(社会学なり社会科学なりが方法的にある種の人格へのコミットメントを宙吊りにするとして、そのこと自体が、なんか、こいつら人間を人間扱いしてないな、畏敬の念がそもそも欠如しているな、という印象を与えることになってもおかしくない)。

そして、それを非難するのがお門違いということだ。自然科学と人文系の学問の事情の違いがある。

たとえば、自然研究から哲学に転じたソクラテスについて。プラトンが『ソクラテスの弁明』で描いている死刑の求刑に対するソクラテスの弁論の倫理的な厳しさは、もうアテネ市民に対する呪詛とも言えるようなレベルじゃないかと思ったりする。表立ってなじったりしないからこそ、そこで国法を尊重するというパフォーマンスが強烈な皮肉として、死刑判決に賛成する市民たちへの轟くばかりの軽蔑と見えるのだといってもそれほど誇張ではないだろう。

おそらく、エラスムスのような「寛容」のすすめも人文的教養が無ければ生まれてこない理念ではあろうけど、それもアイロニーと無縁なわけではないというのは『痴愚神礼賛』という書名が語っていたりするのだろう。

ただ、敬意を払ったり、軽蔑とはいわないまでも、倫理的だか道徳的だかの非難をせざるを得ない局面が、人文系の学問にはあるのだ、ということ、そして、そこにおいてこそ学者の誠実さに感動させられることもあるのだということを、小飼弾は全く知らないように見える。少なくとも、件の書評を見る限りでは。

(追記)文章を微調整した(11月10日)