『伝わる・揺さぶる!文章を書く』のプロローグ

この本の読書会、淡々とすすめております。

伝わる・揺さぶる!文章を書く (PHP新書)

伝わる・揺さぶる!文章を書く (PHP新書)

『伝わる・揺さぶる!文章を書く』というタイトル。 - 白鳥のめがね
引き続き、読書会を通じて気が付いたことなどを書いていきます。

さて、この本は、タイトルが全体を要約していると言えるわけですが、プロローグでも、すでに、本書全体の内容が凝縮されて示されていると言えます。同じことを、繰り返し、別の角度から、別の具体例を通じて語っていくというのが、この本のスタイルです。

さて、山田ズーニーさんの文章についての考え方で私にとって一番面白いのは、ズーニーさんが「根本思想」と呼んで、文章を書く上でそれに注意すべきだと言っている所です。文章は誰かに向けて書くものだけれど、書くときに抱いている思いが文章に反映されるのだ、と言うのですね。

根本思想とは、文章の根底にある書き手の価値観・生き方・思いだ。尊敬、侮蔑、感謝、憎しみ、怒り、依存、エゴなど、文章を支える想いは、言葉に書かずとも、如実に表れてしまう。文章は、この点で甘くない。
伝わる・揺さぶる!文章を書く (PHP新書)(p.35)

だから、「ネガティブな根本思想」を抱いて書くと、読み手にはその姿勢が見え透いてしまうので、本来言いたかったことが逆に伝わらなくなってしまう、文章を通じて実現したかったはずのことが、台無しになってしまう、とズーニーさんは注意を促すわけです。
私は、こういうズーニーさんの指摘を読んで、次の話を思い出しました。

よく「感情的になって書いたエントリはホッテントリになりやすい」と申しますが、それは書いた人の気迫がよい意味で伝わってくるんだろうなあと思います。読者が引き込まれるのですね。
なぜ私はこんなによいホッテントリを書くのか - 鰤端末鉄野菜 Brittys Wake

これはたぶん、ズーニーさんが注意していることと重なる事柄です。

ただ、ズーニーさんの「根本思想」という言葉は、誤解を招きかねないもので、同書の中でも十分に整理されているとはいえない、意味合いにかなりの幅がある言葉だと思います。きっと、この点は、続く著作でも様々な仕方で言い換えられ、変奏されていると思います。


さて、プロローグのタイトルは「考えないという傷」。
サブタイトルに「考える方法がわかれば、文章は生まれ変わる」とあり、「書くことは考えることだ。」というとても明確な断定からプロローグが始まります。これが本書全体を貫くモチーフです。

この本は、文章を書くときに、どんなポイントに注意して考えをまとめればよいか、を指南する本と言ってもいい。実際、文章の構成術とかレトリックとか、言葉の斡旋については、ほとんど教えてくれません。ズーニーさんからすれば、それは二の次、後から付いてくるもの、という感じなのでしょう。

ズーニーさんは、ベネッセの通信講座で高校生向けの小論文指導のテキスト編集をしていたひとなんですが、その仕事の中で出会ったある女子高生の作文の話がこのプロローグの中心になります。

それは、考えることを放棄してしまった作文の例です。

とある大学の小論文の課題に、「他人事でなく自分が切実に受け止めている問題をあなたの腹の中から発する言葉で述べよ」というものがあり、何人かの高校生に回答してもらった。その回答の一つが「切実な問題は自分の将来だが、とりあえず、一流の企業にはいろうと思うなら、とりあえず、大学に進学して、高学歴を目指すのが手っ取り早いので、とりあえず、目先の問題から解消したい」といった趣旨の文章だった、というのです。

それで、ダメな小論文を指導によって改善する、という企画だったので、この作文が一番ダメだ、ということで、あえて指導の相手に選んだのだけど、これをどう指導して作文力を伸ばせるのか、とても悩んだ、ということが語られます。

こんななげやりな人生観で、考えるのを放棄していて、こういう回答では課題の趣旨に答えていないということも想像できない女の子に、果たしてどんな指導ができるというのか・・・。

それで、結果としてズーニーさんは驚くべき成果をあげるのですが、それは本書を読んで確認してもらうとして、このプロローグで注目したいのは、ズーニーさんがどう指導できるのか考えあぐねて何人かの先生に相談に行くところの描写です。

3人の文章指導の専門家に相談したら、最初の二人は、これはてんでお話にならない、指導するのは無理、無駄、人生観そのものを変えなきゃいけないから、並大抵のことではない、という返事。そこで本当に後悔しはじめたズーニーさんは、3人目の先生とのやりとりの中でヒントを得るのです。

その先生も、「考えるのが面倒なときに使う「とりあえず」なんて言葉を連発する子に、良い小論文が書けるものか・・・」と当惑しているのですが、長い検討と話し合いの後、しばらく考え込んだ末にこういったというのですね。

まてよ。:::略:::一流大学に行きたいなら、とりあえずいい大学を目指せっていうのは、世間がよく言っていることだ。残念だか、今までの世の中はこの通りなんだよ。この子はそれをちゃんと受け取って、反抗するわけでも、世の中をナナメに見るわけでもなく、その通りちゃんとやっていこうとしている。もしかしたら、とても素直ないい子かもしれない。求められていることがわかっていないだけかもしれない。

おそらく、ここで読み取られている、文章の背後に透けて見える女の子の「生き方」、人格のあり方というものは、文章の表立った内容の奥にあるもの、ズーニーさんが「根本思想」という言葉で言い表そうとしたことの、もっとも奥深い意味につながる何かではないかと思います。ただ、それは、慎重に解読されるべき何かだった。

「根本思想は伝わってしまう」とズーニーさんは言いますが、それは、いわば書き手の心得のようなもので、同書では文章が読み解かれる場合についてははっきりとは主題化されません。しかし、その伝わり方も、様々なレベルに及ぶものでしょう。そこにも、「伝わる・揺さぶる」ということの、一言では言い尽くせない豊かさがあります。

表面上は何も考えていない、その「考えていないことの傷」とも言われる何かが慎重に読み取られたからこそ、考えない女の子が無意識のうちに抱えていた問題が、引きずり出されることになる、ここに、そういうストーリーを読み込むことができます。


さて、ズーニーさんが描いているこの先生の台詞で、もう一つ注意したいのが「今までの世の中はその通りなんだよ」という一言です。

不注意な語り手ならば、ここで、「世の中はそう言うものなんだよ」とか「世の中なんてそんなものなんだよ」と言ってしまいそうなところです。
しかしこの先生は「今までの世の中は」と限定を加えている。そこから、「今までは確かにそうだったが、これから先はどうかわからない」ということが含意されます。ここで、ズーニーさんが、そう記している所には、ズーニーさん自身の思いもこめられているでしょう。
文章を書く上で、自分の主張があてはまる範囲をなるべく正確に限定することは重要なポイントです。そこで、自分の主張を、慎重に、限定していく必要がある。過不足ない限定を適切に即座に文章に施すことができるようになれば、かなり自在に文章をかけるようになっているでしょう。

話を戻しましょう。
これまでの世の中はそうだったかもしれない。しかし、未来の世の中はいくらでも変えることができる・・・・そういう思いがあるからこそ、ズーニーさんは、「今までの世の中」と、限定を加えて書くことができたのだと思います。

そこにも、この本の中心的な思想が表れていると言ってよいでしょう。