『少年B』評その3(改題)合唱と独白の間

『少年B』について、自意識を描いた作品として解釈し、歴史的に位置づけるという議論を進めてきた。
『少年B』あるいは、自意識の劇場(上)+ - 白鳥のめがね
『少年B』あるいは、自意識の劇場(中) - 白鳥のめがね

(中)に書いたところまで考えたところで、5日、私は、駒場アゴラ劇場のロビーにでかけて、岸井さんと米光一成さんが、柴幸男さんと語るのを聞いてきた。
21=2009.05.06.−04.16.

そこで、柴さんによる演出意図の説明や、他の方の感想なども耳にすることになった。その話を聞きながらいろいろ考え直した点もあるので、「自意識の劇場」という解釈の流れを一度保留して、話を仕切りなおしたい。



トークを聞きながら最後の合唱のパートのことをすっかり見落としていたことに気がついた。ラストに、主人公が客席に向かって「何もしないで、何かできると思っている僕たちよ、今そこにいる、そこの僕だ、そっちはどうだい?僕は、不安定だ。でももう少しがんばってみるよ」と独白するシーンがあり、そのあと、他の役者達が舞台に集まってきて、「明日へ」という合唱曲の合唱になる。

そして、主人公一人が舞台に残る。

この作品の上演を繰り返し見たという岸井さんほかの方の感想を聞いていて、このパートの演技がどのような質になるかによって、作品の「解釈」がまったく正反対のものに変わり得るということに気づかされた。
独白を終えて、合唱の列に加わる仕方、他の演者が入場し、退場する仕方、そのニュアンス次第では、主人公の情けなさが際立つかもしれないし、孤独のなかに掴みなおされた意志が際立つかもしれない。作品評価も全く変わってくる。

岸井さんはこの日のトークで「合唱のパートがポリフォニックなものに見えた。群像劇としてそれぞれの登場人物が際立つ演出もありえたのではないか」ということをおっしゃっていた。

自分は今回の全演目、一度だけしか見ていない。自分が『少年B』を見たときには、最後の合唱シーンは、独白の内容の延長線上にあるもの、劇中に何度も繰り返される妄想と同じようなもの、「参加しなかった合唱に参加できていたら」、という主人公のひ弱な自意識が見せる情けない願望のようにしか、見えなかった。

久しぶりに集中して劇場に通いつめたこのごろ、自分の舞台への態度についてもあれこれ考え直すことがあった。その反省の中で思ったことのひとつが、舞台への集中が途切れて、言葉が頭に入ってこなかったりするときには、演者の集中も不十分であったりするのだろう、ということだ。
まあ、パフォーマンスの質によって、受容の仕方も変わるのは当然のことなのだが、これは、単に受動的ということでも無いと思う。演劇という表現ジャンルに固有の、演者と観客たちとがその場を共有する仕方というものがあるだろう*1。ともあれ、あえて、一言も聞き逃すまいと張り切って舞台に向かうような鑑賞態度を取らなくても、むしろ、舞台の質はありのままに感受できるのだろうな、というようなことを思った。

そういう観点からすれば、自分が見た回には、合唱シーンもまた、自意識の中に閉じこもるような質のものとして上演されてしまっていた、と言うべきところなのかもしれない*2

いずれにせよ、演技者による解釈次第で、上演の価値が全く正反対になり得るというのは、戯曲としての脆弱性だとも言えるだろうし、演出家としての戦略の不確かさだとも言えるだろう。

さて、「成熟できない」ということが『少年B』の問題であり、それは歴史からの遊離として現れている、ということを指摘してきた。
主人公は帰郷しているらしいのに「お母さんが心配していたよ」と友人から伝言される、というのは、考えてみると少し奇妙な状況で、この実家の忌避が示唆されるに留まり、忌避として主題化されることはない。

岸井さんもトークで言及していたが、上京して演劇をしている主人公にかつての同級生が「こっちでやってよ」と言うシーンがある。そこで「やりたいとは思ってるんだけどね」といいながら、「こっちに帰ってくるときにはすっぱりとやめるよ」と語られることになる。日本の演劇の困難を、そのままに認めて、その状況を前にした無力さを認めて終わっているという意味では、ここあるのは現実の忠実な反映だといえる。

地元に戻ることは、夢を捨てて、現実を受け入れること。
これは、いささか凡庸すぎるロジックだ。

最後の、再会した女子からの励ましも、それ自体が「特別であること」が夢の中でしかありえないということの空しさを演じてみせるだけで終わっている。

『学芸会レーベル』が、学芸会世界からの帰還と、学芸会を求める人々がいる世界への冒険を多少なりと荒唐無稽な仕方で演じることで、図式的であれ演劇をこの世界で続けることの覚悟を示して見せていたとするなら、『少年B』は、演劇という装置が「中二病」的自意識への退却にしか役立っていないという絶望的な現状認識を追認しているだけのようにも見える。

27歳の柴幸男は、37歳にもなって、中学生のころの憧れの女の子に憧れ続けている状況が、どれだけ痛くてどれだけ悲惨かということが、まだまだわかっていないのではないかとも思う。

何もできなかった役者に最後に残った希望が、「中学のクラスの合唱」というのは、いったいどれだけ絶望的なことか。

自分がそんな感想を持って、暗澹たる気持ちで劇場を後にしたのは、もちろん、岡部さんが演じる主人公にすっかり感情移入していたからだ。

現在37歳の私も、定職が無いし、不安定でこの先が見えない。成熟がどうのとえらそうなことが言える立場ではない。江藤淳を読んだりなんかすると、そのどえらい早熟ぶりに我が身の無力さを思い知り、尻込みするような感じだ。



とりあえず、ここまでで確認されたことを敷衍してまとめておこう。
歴史からの遊離*3とあらかじめ失われた成熟という作品のモチーフが、それもまたひとつの現実の忠実な反映となっていて、つかめそうな希望を逃し続ける、その手触りのようなものが、合唱の場面に示されていた、そのこと自体が、劇作上、演出上の脆弱さとなっていること、そこで、独白と合唱が対置されていること、そこに、演劇における独白という制度、学校における合唱という制度の対置の中から、日本の近代という問題が透けて見えること、その問題が、見事に造形されていながらも、主題化はできていないこと。

そこから導かれる評価を書いておこう。
ものすごく単純な言い方をすれば、学校という制度が無ければ、酒鬼薔薇事件は起きなかった。「学校という制度が作る抽象的な空間を誰もが生きたという具体性」の捉えがたさ、つまり、学校の経験という問題が『少年B』においては、純化して示されていて、さらに、演劇という制度が、学校の経験の延長のようになってしまっているという現実もまた示されており、そういった、誰もが知っていることがとりあげられながら、しかし作中で暗示されるレベルで終わっていることの空しさ、それが現実の忠実な追認になってしまっているという意味で、『少年B』には内容が無い、と言えること。

ここで思い出したのだが、『少年B』の作中世界では、酒鬼薔薇事件は起きていない。『少年B』で起きた事件は、動物の殺害までで終わっていて、その先にエスカレートする可能性は示唆されるが、うやむやにされて描かれない。

そして、猫かと思っていたものが、汚れてぬれた学生服だった、という描写が覆い隠す現実、表象の限界の外に置かれているのが、他ならない酒鬼薔薇事件そのものだとも言える。
繰り返しになるが、しかし、ここで汚れてぬれた学生服を自転車で轢いたというイメージを自意識の表象の臨界点に設置できた劇作家的想像力は、やはり物凄く冴えているというべきだろう*4

ところで、余談になるけれど、米光さんが「玉井」というマニアックなクラスメイト役に感情移入していたのがとても面白かった。作中で逮捕されてしまうのがショックだったと言っていた。
そこで、柴さんは、「玉井にはモデルになる中学の同級生がいて、本当に面白くてきっと作家かなにかになるだろうと思っていたらコンビニの店員になった。はじめ玉井の将来をコンビニ店員として想定していたが、結局、小さい男の子を襲って逮捕されたという話になった。逮捕されるということ自体はネガティブなことではなくて、そこでむしろ玉井は救われている」という趣旨のことを言っていた。「それ聞いてもっと切なくなった」と米光さんは言っていた*5

*1:この点で私は、岸井さんの演劇についての考え方、そしてその実践から大きな影響を受けている。

*2:今回は、実際の観劇経験から離れすぎていて、その後見た舞台が何本もあったりして記憶も遠ざかりつつあり、また他の方の感想を聞いたり、作家の話を聞いてしまっていたりもするので、上演の質について語ることがもはや困難になりつつある。上演の経験に基いてしか語れないわけだが、直接の上演評は差し控えるべきだろう

*3:この論点を世代的なものとして論じることができるのかどうかは別にして、柴さんが演劇史をラップの歴史に重ね合わせていた手つきそのものが、歴史感覚の希薄さ、ないし、ある種の歴史観の欠如、欠如というのが悪ければ、歴史を併置可能なものとするような感覚が見て取れると思う。http://cassette-conte.air-nifty.com/blog/hip_hoprap/index.html

*4:後で思い出したが、動物の毛をめぐるやりとり、それが学生服のポケットにしまわれるというエピソードについても、注釈しておくべきだったかもしれない。学生服が隠そうとするものが舞台上に帰ってくる。

*5:『少年B』での玉井の位置、犯罪が芸術的な達成を代理するものとして「特別な何か」として描かれていることについても注釈すべきことが多く残されていると思うけれど、さしあたりここでは括弧を開いたままにしておきたい。