『少年B』あるいは、自意識の劇場(中)

『少年B』あるいは、自意識の劇場(上)+ - 白鳥のめがね
の続き。

『少年B』で「猫を轢いてしまう」エピソードが作品全体の軸になっていることをめぐって解釈を進める。「りたーんず」の雑誌に掲載された戯曲は、上演の台詞と食い違う点もあるようだが、以下、戯曲に沿って作品の詳細に立ち入って論じてみたい。

自転車で猫を轢いてしまったかもしれない、でも、その場で確かめずに、逃げてしまう。そこから、「猫殺しの犯人」に仕立て上げられてしまったらどうしよう、という妄想が描かれる。最終的には、猫と思っていたものは、雨にぬれた学生服だったことが確認される。

女子 なんでがっかりしてんの?
1 してないよ。
女子 してるよ。
:::略:::
1 ……特別になりたかったんだ

「何も起こらない僕のストーリー」の中で、「猫殺し」は「キレなかった14才」である自分には決してできないことであり、猫を殺してしまったかもしれないことへの恐れは、特別であることへの憧れと切り離せないものとしてある。

轢いてしまったかと思った猫が学生服だったとされていたことに注意しよう。実家の酒屋を継いでコンビニ経営者になっている「元不良」への憤りが学生服を殴り付ける演技としてあらわされていたが、学生服は「キレる」ことの不発、キレられないこと=特別になれないこと、の象徴となっているようだ。

さて、ここで作劇上、自転車で轢かれてしまう幻の猫は、「キレなかった」自意識の劇場を脅かす臨界点の位置にあって、表象の限界を超えた生々しい現実のようであり(それを踏んでしまった感触だけの存在)、学生服はそれを覆い隠し排除するものとして、自意識の劇場に現れる。

そこで思い出すのは、平田オリザの劇作において、しばしば舞台の外で目撃される奇妙な物や事態への言及がなされることだ。蛇の交尾であったり、ミイラ男であったり、舞台上で交わされる人々の静かな会話の輪に戻ってくる人が外で目撃したと語る、どこか不穏であったり、突飛であったりするような、舞台の外にあって、どこか意味ありげに語られるものは、おそらく、舞台上で交わされる会話から浮かび上がってくる人間関係や思いなどに収まらない、戯曲のリテラルな表象の外にあるものの全てを象徴的に戯曲の中に取り込むような特異性として作用している。『少年B』で取り消される「幻の猫」は、そのようなものに該当している。平田オリザにおいては、戯曲に広がりを与える、舞台の外の何か、は、この作品では、決して届かない自意識の外として打ち消され、舞台の狭さを印象付けるものとしてある。

舞台の上に実際に自転車はあり、実際に学生服はあるが、舞台の上で自転車が学生服を轢くことはない。自転車が何かを轢いた感触が、演技と言葉によって、浮かび上がる。夜の濡れそぼった学生服が、ぽつんと路上にあるイメージが、作品全体を底から枠付けているような感触が残る。

轢いたかと思えば、学生服であり、殴りつけたかと思えば、学生服である、その学生服とは、学校化した社会そのものをあらわしているのだろうし、そもそも社会に対してアクションできないこと、社会的な現実から遠ざけられていることそのもの、未成熟そのものの衣装なのだろう。

さて、そのようにキレなかったまま、キレた少年への羨望を無効化したまま抱えるという「未成熟」の自意識を劇場に造形してみせたものとして『少年B』を解釈できるとして、では、この作品がこのフェスティバルで上演されたことを、どう評価できるのだろうか。

(続く)