『少年B』あるいは、自意識の劇場(上)+

4月27日ソワレ。すこしロビーに居て、公演を見て、帰る。
http://kr-14.jp/kr-14web/


お話としては、こんな感じだった。

僕が14才のころ、自分の通っていた学校の校門あたりに動物の死骸が置かれているって事件が起きていたりして、自分はお笑い芸人を目指して友達と夜中に家を抜け出して練習していたりしたんだけど、不良におびえたりとか、クラスの女の子にあこがれて、でも結局告白もできなかったし、合唱の指揮を女の子に頼まれても、指揮が下手で降ろされちゃったりとか、合唱の日も学校休んでいたりとかしたんだけど、ちょっとマニアックなクラスメイトもいたりして、動物を殺しているのは宇宙人じゃないかって話していたこともあって、でも、そんな14才のころを思い出している今の自分はもう37歳で、お笑いの才能なんてなかったから、あきらめて、いまは売れない俳優をしているんだけど、かつての同級生たちは、地元でそれぞれ働いていて、好きだった女子とか、お笑いの練習していた友達とか、みんなと久しぶりに会って、話をしたりしてみて、ちょっと自分はどうかってふりかえってしまったりしたんだけど、根拠もなしに、未だに夢を追っているみたいな自分って、何なんだろうと思うし、ときどき怖くなるし、寂しいし・・・・僕は相変わらず不安定だけど、でも、もうちょっとがんばってみるよ。


お話の内容としては、こういうのは、まあ、わりと良くあるものだと思う。

内容的には、マンガの『中学生日記』に描かれているようなディテールだし、とりわけ90年代後半以降のドラマの『中学生日記』にだって、ときどき傑作がある。

自分には取り柄が無いと思っている人がそれでも表現をがんばるという自意識の話といえば福満しげゆきの『僕の小規模な失敗』とその続編が絶妙に描いているし、みうらじゅんの『アイデン&ティティ』もある。

これらの、ロックとか、マンガとかを舞台とした自意識のドラマのケースでは、どこかで「ブレイクスルー」を超えるための葛藤のドラマがあるわけだけど、『少年B』の場合は、結局、葛藤を乗越えるドラマはあらかじめ排除されていると見ることができる。

さて、『僕の小規模な〜』『アイデン&ティティ』のどちらも、作家的、アーティスト的な自覚が達成される自意識のドラマにおいて、女性との恋愛が重要な契機となっている。単純に言えば、そこで成熟が問われる*1

『少年B』の場合、女性との関わりが、37歳になっても、「中学のときの憧れの女の子に何もできない」で止まってしまっている。そのことが『少年B』の問題のひとつ*2

終幕で再会した同級生の女子との会話は、女性からの励ましに対する応答というモチーフを展開するのだが、その結果どうなるかというと、

女子「大丈夫、岡部君なら、きっと」
1 「また、そんな無責任なこと言って」
……
1 「……僕よ。僕たちよ。::::略::::まだ、僕は、僕をあきらめないよ。」
(1は「岡部」。雑誌「りたーんず」収録の戯曲から引用)

女性との対話は打ち切られ、内向きの自己同一性だけが問題になっている。
アーティスティックな夢を持ち続けることが、成熟の拒否としてしか現れてこないわけだ。

さて、りたーんずの雑誌収録の戯曲を確認してみると、登場人物の役名が、役者の名前と一致させられていることがわかる。そして、主役の「岡部」が37歳というのは、主演の岡部さんのプロフィールに一致する。


主演の岡部さんのプロフィールはこちら。
http://e-pin.jp/actor_actress/okabe.html
華々しいスターってわけじゃないけど、ちゃんとした、立派なプロの俳優さんだ。

それで、この作品もモチーフにしているあの事件のころは、岡部さんは、もう26歳くらい。ちなみに、演出の柴さんは今、27歳くらい。

柴さんのプロフィールはこちら。
プロフィール

たぶん、役名と役者名の一致というのは、そこで、日本社会の現実と舞台で描かれる内容とをリンクさせたいということなのだろう。

そうであればなおさら、この10年の差をどう考えているのかが問題になる。

10年差の問題が解消できると想定すると、10年の落差は2つの仕方で解釈できる。

ひとつは、97年の事件は87年に起きていても良かったのだ、という解決。舞台上の「現在」は、客席の現在と「同時代」となる。
この場合、失われるのは、97年的な現実に根ざすディテールのリアリティだ。おそらく、お笑い芸人を目指して練習する、というディテールは87年的なリアリティではない。
岡部という役名と、舞台上の岡部さんの年齢が、舞台上の現実において一致する代わりに、舞台上で回想される過去は、日本の現代史から遊離したファンタジーになる。
事件は固有性を失い、役名の岡部と役者岡部の同一性が、「僕」のアイデンティティを強化する効果を果たす。

もうひとつは、舞台上で展開されている「現在」は、実は10年後の現在なのだ、という解決。この場合、97年の事件と舞台上で回想される中学生時代が「同時代」となる。事件の固有性が保たれ、作、演出を行った柴さんが中学生当時に経験したこととの同時代性が、舞台上で回想される「中学時代」のリアリティを保障する。その代わり、10年後の未来が、2009年現在とまったく変わりない現在であると想定されることになり、舞台上の現在は、日本の現代史から遊離したファンタジーになる。
そこで、作者柴幸男と描かれる「僕」との一致が、「僕」のアイデンティティを強化する役割を果たす。

しかし、おそらく、どちらの解釈も、整合しない。この不整合が、この作品のもうひとつの問題。これは、女性との関係が中学時代で止まっていることと同型の問題だと思う。つまり、時代との関わりを回避して、内向きの同一性のみが問題になっているから、現在も、過去も、現代史の置き換え不能な固有性から遊離してしまうのだ。

作者の現在とも、主演する岡部さんの現在ともずれたところで、内向きの同一性(アイデンティティ)だけが問われるような「僕」が位置するのは、歴史が推移しても不変であると想定されている「中学生時代」の中なのだ。

しかし、制度的に変わらないように見えるそれぞれの中学生時代も、それぞれの歴史の刻印を帯びていて、さらに、制度的に変わらないように見えることそのものが「近代」の刻印に他ならない。『少年B』は、その二重の意味での時代の刻印を内向きのアイデンティティの中に回収してしまう。そういう仕方でドラマをあらかじめ無効にするアンチドラマになっているのだ。

役名を役者名と一致させることによって起きているのは、内向きの僕のアイデンティティを歴史から遊離させることなのだ。


さて、この作品の舞台で展開することは、すべてが自意識の内にあるといえる。

場所は僕。設定、時間、背景も僕。::::略::::

という冒頭の独白が、そのことを明示している。

主人公の妄想や回想が、現在と区別無く演じられる。主人公が中学生の衣装に着替えたり、自転車に乗ったりする様子が、他の役者によって着替えさせられたり、他の役者に抱えられて自転車に乗せられたりすることで演じられるのも、舞台の全体が自意識の内にあり、主役を演じる役者の身体も「自己イメージ」に他ならないということを強調する演出であると解釈できる。

おそらく、この自意識=舞台というモデル自体が、「近代的」な自我を造形することになっており、自意識の展開を表象するものとして近代的な舞台と客席の構造を活用する『少年B』の手法は、とりわけいわゆる不条理演劇において発展させられたような、たとえば「主観性の演劇」とでもいえるような系譜の中に、位置づけることができるだろう。

夜自転車で猫を轢いてしまったかもしれない、という事故のディテールから時系列的な展開の箍が外れて、回想と妄想と現在が入り混じる展開になる。このエピソードの展開のさせ方は、とても巧みなもので、ストーリーテラーとしての柴幸男の技術の確かさを示しているし、劇作家的な想像力の豊かさを全面的に発揮しているとも思う。この展開が、作劇上、ストーリー内容と舞台構成の両面で、『少年B』のかなめとなっている。

(続く)


追記:ロバート・ウィルソンの話までしなくていいかと思って言及を削除。
それから、自意識の劇場、と書いたからには、エイベルの『メタシアター』そして、同書の書評である、ソンタグの「悲劇の死」(『反解釈』所収)を想起しておくべき所だった。

反解釈 (ちくま学芸文庫)

反解釈 (ちくま学芸文庫)

あと、素で岡部さんを岡田さんと間違えてしまったところが一箇所あったので訂正。劇中のいい間違いと同じことをしてしまった。

*1:ある種のミューズとして現れる女性への憧れなり、畏敬の念なりが、作家としての自己の確立に欠かせないファクターとして現れるという「世界設定」の源流を辿ると、『神曲』から『ファウスト』へ、といった西洋文芸の系譜に行き着くのだろうと思う。悪く言えばその劣化コピーとして、上に挙げた諸作品があり、『少年B』もある。この当たり前の文化史的な状況についてどのような議論があるのか不勉強ながら私には十分な認識がないし、ここでこの主題を展開する余裕も無い。だが、ひとつ言えるのは、たとえ借り物であったとしても、私たちが生きてきた近代を、その全体として、考えてみる必要があるということだ。

*2:父親の不在と母親の忘却も、その問題系の中にあるだろう。