アラン・プラテル/見なかった記念に

私は見に行かなかった。

見に行った人たちの文章。

快癒を求める人々。ストリート・ダンサーのようなアクロバティックな踊り。白人も東洋人も南方人もいる。人に触れていやされようとしても震えはとまらない。裸になって身体をたたく。動きはねじれる。思わず目を背けたくなるような狂気じみた動作がダンサーの鍛え抜かれた身体と身体能力で再現されるのでますます痛々しい。ユニゾンで踊るときがあっても、やはりなにかに憑かれたような動作が痛ましい。

:::略:::

宗教離れしているとはいってもやはりそこはキリスト教圏である。
歌は理性のよりどころである。
http://hortus.air-nifty.com/poetry/2009/04/post-d367.html

虐げられ傷つけられ叫び声をあげながらも生きなければならない人々。
それは、決して人ごとではない今まさに私たちの目の前に突きつけられた現実。
http://summer-snow.tea-nifty.com/snow_drop/2009/04/piti-3f73.html

内臓から血液から骨から皮から、全部吸い尽くすような感情の発露。
バッハの旋律にこころが絞られて、どうしようもなく人間があらわれる。
くりかえしくりかえし、脱ぎ捨てて、ちぎって、吐き捨てても。
http://chloe.petit.cc/banana/20090418014303.html


かつて、私は見に行っていた。
昔書いた『バッハと憂き世』についての文章から引用。

ありふれた悲惨や愚かしさ、いわば世界の縮図を描いているかのようだ。ここで、バロックの哲学者、ライプニッツの名前を思い出しておくのも有益だろう。ライプニッツが言う予定調和とは、楽観主義とは正反対のものだ。齟齬し合う仕方でしか存在しえないものたちが、最大限共存することができるぎりぎりの仕方として見出された調和、現実のあらゆる悲惨をそのような調和として肯定すること。その認識こそが予定調和の思想を導いたのだった。プラテル作品:::略:::もまた、あらゆる混濁を見届けるところまで認識を透徹することによって世界を呑み込みくるみこむ仕掛けであり、底知れない怒号のようなハーモニーを受け入れるような仕方で舞台の上に世界の現実を表出する仕掛けであったように思う。

初出TalkingHeads叢書No.15

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あ、公演情報が無いな。まいいか。