が補完されることについて

えーと、このあいだエイプリルフールのパロディ記事として、『日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で』を読んであれこれ考えていたときに浮かんだ妄想を書いてみました*1
要は、日本語補完計画がないんでしょ? - 白鳥のめがね

それで、パロディ記事として、言語とナショナリズムの問題を皮肉っているうちに何を皮肉っているのか良くわからない代物になっていますが、天皇制の問題について触れました。

正直な話、天皇制については、すっきり解消したらいいのに、と思う一方、今の天皇制がずるずる続くことになるだろうなと、僕は感じていて、そう予想すると少し気分が滅入るのです*2

天皇制があるから、民主主義が暴走してナチみたいな極端なことになるのが予防されるみたいな議論があるけど、リアリティをぜんぜん感じない。

むしろ、国家元首を選ぶ責任を免除されていることで、政治に甘えがゆるされているような気がして、天皇制が今の形で続く限り、日本で政治不信が解消されることはないだろうとすら思う。

まあ、これは、なんとなくそう思うという程度のことで、本当は、天皇制がどうとかいうことは、本当の政治的な課題ではないのかもしれない。

でも、国語の問題ひとつとっても、国語が亡びるかどうかという話をしているところで天皇のことをすっかり忘れてしまっているのは、どこか寂しいというか、天皇制が重大な問題であってほしい、という、何か屈折した願望が自分にはあるらしい。

前回の、日本語補完計画のパロディ記事*3を書いてみて、そういうことが分かりました。

それで、そんなことを考えていた昨日、TAGTAS大学というのに行ってみた。

4/3(Fri.) [『魔女傳説』とその時代] 福田善之 (劇作家・演出家)#講話
「TAGTASフォーラム-条件なき大学-」第一期開講のお知らせ - TAGTAS

『魔女傳説』という戯曲は、大逆事件の首謀者のひとり、菅野スガという女性を主人公にしたもので、その著者である福田善之さんが当時のことを振り返って語るという会だった。アングラ前夜の「戦後新劇」転換期の様子がうかがえて、興味深かった。

TAGTASというのは、Trans-avant-garde Theater Association(トランス-アバンギャルド・シアター・アソシエーション)の略称で、前衛舞台芸術連合って漢字で書くらしい。

TAGTASのひとたちは7月に行う旗揚げイベントで『魔女傳説』のリーディング公演を予定しているそうで、そこであえて大逆事件を取り扱うには、天皇制と演劇のかかわりを問い直し、批判的に対峙したいという意図があるそうだ。

TAGTAS大学での話しを聞いていると、劇団解体社の清水さんが「日本の演劇は国家の成立に関与してこなかったからそもそも政治的に無力で当然だった」みたいな文章を発表したら、黒テント佐藤信さんから「演劇は天皇制を補完する役割を果たしてきたし、今もそうだ」みたいな反論があり、それに対して、天皇制に批判的に対峙してきた演劇があるんじゃないか、と振り返ってみたときに、そのひとつとして『魔女傳説』が浮上してきたのだとか。

まあ、アヴァンギャルドな政治性を突き詰め再びその礎を21世紀に据えたいというときに、天皇制という問題を、戦後演劇史を回顧し批判的に継承しながら、持ち出す、というのは、真っ当すぎるくらい真っ当だと思う。その姿勢が、実際の政治的なインパクトとか、アクチュアリティという点で、どれだけの意義を持ちえるのかについて、評価は分かれるにしても。

それで、今回のTAGTAS大学のレクチャーでは、若手劇作家が福田さんに、「『魔女傳説』初演の頃は、大逆事件を取り上げることにどんな政治的意図を込めていたのか」と質問していて、福田さんは、「天皇制に対してどうしても否定されなければならないと強く思ったことは無い」と語っていたのが面白かった。

戦時中、家族がやっていた下町の宿屋で暮らしていて、そのお帳場では、世間話として「大正天皇が会議中に紙飛行機を飛ばしている」とか「南朝がもてはやされているけど、今の天皇家北朝だよ」とか耳にしていて、身近に天皇崇拝者は居なかった、とか、中学生のころ、バスに乗って宮城(今で言う皇居)の前を通るときには礼をしなければならないと聞いていたが、実際に立ち上がって礼をしたのは自分だけだった、ちょっとむっとしたけど、その後降りていく紳士が「君は偉い」と言ってくれたのを覚えている。それが自分が天皇制に加担した唯一の行為だった、とか、敗戦の後、天皇人間宣言が出たときに、「考えてみれば人間だなんて当たり前のことなのに、なんで中学生にもなって、天皇が神だなんて信じられたんだろう」という風に、そこにショックを受けた、とか語っていた。

それで、菅野スガを戯曲に取り上げた理由は、今となっては思い出せない、とか、当時、学生運動で監獄か留置所から出てきたばかりのひとに感想を聞いたら、あまりピンとこなかったが、幕間狂言でやった、初期状況劇場風演出のばかばかしいファルスだけは良かったと言っていた、生真面目な戦後新劇より、その後勃興するアングラの方がその当時の人々の琴線に触れるものがあったんだろう、と語っていたのも面白かった。

で、TAGTASで中心になっている、清水さんの次の世代くらいの演出家や舞台作家さんが持っている天皇制への問題意識っていうのは、どっか観念的なのかなーという印象も持ってしまう。

戦後新劇をアングラよりも正統な前衛として再評価しようという姿勢も、真っ当なのだろうけど、それで戦後新劇が批判的に摂取できるものなのかどうか。客席に居た菅孝行さんは「歴史への責任という点では、アングラよりも戦後新劇の方がしっかりと歴史に向き合っていたと評価したいんでしょう?」とまとめようとしていて、それには清水さんもまあそうなんですけど、と言いながら口ごもってはいて、そういうまとめだけには尽きないのかもしれないけど、福田さんが意外にも(?)アングラへのシンパシーを語っていたことを司会していた佐々木治己さんは、あんまり正面から受け止めてないような気もしたのだった。

ともかく、福田さんの、生活感情に根ざした語りに浮かび上がってくる、天皇制との距離感みたいなものの感触、世間のなかで天皇とか国家との関わりが実感されていた確かさみたいなもの、そこに、自分たち(以降)の世代との、歴史意識の決定的な差を感じた。

おそらく、そういう厚みのある歴史意識が欠落していったときに、天皇制が廃棄されないにしても、すっかり無害化された国営セレブみたいなものとして存続するのか、そもそも天皇制からの脱却があっさりなされるような世の中になるのか、よく分からないけれど、そのとき始まる光景こそが、東浩紀とかがあれこれ先取りして議論している何かなのだろうし、女系天皇を阻止しようとまじめになっているような人よりも天皇制批判にまじめになっている左翼の方が天皇制を大事にしているという逆説も成り立つような気がしている。

ずるずると、天皇家だけが天皇制の貧乏くじを引き続けるような状況というのが、一番良くないし、その空気を読めないまま街宣車が走り回り、皇居の清掃奉仕とかが続くとしたら、そんな国は衰えていって当然じゃなかろうか。


(追記)ナショナリズムに関しては、近隣アジア諸国に対する関係という問題系があのパロディ記事には含まれていた、その点の話も、総括しなきゃいけないですね。

*1:もうちょっとヒットを期待していたけど、4日時点で2ブクマか・・・・。やっぱりパロディとか風刺の才能は無いな・・・・。どこかで、まじめさが抜けきらず、悪意が毒として結晶していないのだろうか・・・・。

*2:皇居を京都に戻すべし、という主張には、すごく共感する。その上で、一切の国事行為から外して、宮内庁を民営化し、皇族の方々は、民間の名家として外交やイベントで働けばよいとおもう。それこそ「聖域無き構造改革」だ!みたいな

*3:最初は、タイトル違ったんですがはてなブックマーク - 要は、日本語補完計画がないんでしょ? - 白鳥のめがね、パロディと言ったけど、何のパロディなのか自分でもよくわからない(笑)