やまだ紫と松本充代

中野の古本屋でやまだ紫の『空におちる』が売っていたのでしばらく前に買っていた。

ちょっとずつ読みながらいまさら気が付いたんだけど、松本充代ってやまだ紫の系譜のひとだったんだな。

ノローグ的な作風とか、絵柄とか、扉絵のレイアウトとか短編を構成する呼吸とか、やまだ紫のスタイルを真っ直ぐ受け継いでいる。

ある意味、岡崎京子が80年代前半の大島弓子に多くを負っているように、松本充代は80年代前半のやまだ紫の作品の中を生き、そのエッセンスを呼吸していたのだろう。松本充代は、創作の上でやまだ紫の娘だったんだなという感じが残る。

気が付いてみるとあまりに当然のことだけど、気が付かなかったのはなぜだろう。

僕が『ガロ』を読んでいたのは、まだ長井勝一がご存命で『ガロ』も分裂していない80年代末。その頃には、やまだ紫は第一線から退いた漫画史上のえらい作家という感じで、大人が読むものというイメージだった。

松本充代は、10代後半から20代はじめの自分にとっては、年齢相応にひねくれた自意識が素直に共感できるような、歪みを丁寧に掬い取ってくれる作家だった。

きっと、ひそかに読み継がれている作家なのだと思う。
小声で語られる、マイナー作家。

http://d.hatena.ne.jp/kerachann/20070802/p2



ガロ系の女性作家について語れる年長の知人にめぐりあう機会もなかった自分には漫画史の隘路のなかで見えなかったものが、少し距離を置いて見えるようになった21世紀初頭ということかもしれない。

やまだ紫の作品は、前にも何か読んだことがあったけど、いまいちピンとこないままだった。
今回あらためて読んでみて、細やかに張り詰められたまじめさみたいなものが松本充代にも通じる感受性のスタイルなのだろうなと思った。

もちろん、松本充代には松本充代の独自な面があり、主題や構成の仕方において、やまだ紫には無いものもいろいろあるのだろうし、別の系譜も受け継いでいるのだろうけど、今ここではその話をする余裕は無い。

僕は90年代初頭にそのころ青林堂から出ていた松本充代作品を繰り返し読んでいたが、『ドロップ・バイ・ドロップ 』や『潜む声 鏡の中の遺書 その他の短編 』が出た頃、松本充代が復活したって感じで喜んで、それ以降何をしているか知らないままだった。
今回調べてみて、もう一冊新刊が出ているのを知った。また今度読んでみよう。

ところで、『空におちる』がリリースされている「カワデ パーソナル・コミックス」というレーベルは、今思えば80年代の出版界の良い面が出ている企画だったよな。ここから出ていた岡崎京子の本を耽読したことを覚えている。

河出サイトでの、同シリーズの検索結果



☆カンレン パーソナル・リンクス
http://spysee.jp/%E3%82%84%E3%81%BE%E3%81%A0%E7%B4%AB
やまだ紫情報@spysee

http://spysee.jp/%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E5%85%85%E4%BB%A3
松本充代情報@spysee

http://ponchiki.vis.ne.jp/michiyo/michiyo_f.html
松本充代さんの公式ページ。マンガやイラストがちょっと見られる。