近代日本語に弔いを(中休み)

著者の近刊『日本語が亡びるとき』は〈日本語論〉として読まれ、論じられている。これは、『続・明暗』を夏目漱石の作品として読み、水村美苗が書いた〈結末〉に対して、「漱石が物語をこんな風に終わらせたなんて許せない」等々と一喜一憂するのに等しい。(「なるほど、こんな調子では、早晩〈日本語〉は〈亡びる〉のかもしれぬ」。)

日本語が亡びるとき』という書物の〈形式〉は、はたして本当に〈日本語論〉の体裁に過不足なく収まっているか。
〈増殖〉するアングルブラケット 水村美苗『日本語が亡びるとき』に寄せるオマケの作文 - 仕事の日記

というわけで、私もネットで注文したのでそれなりに読んでみようかと思っていますが、

近代日本語に弔いを(2)−近代日本亡霊− - 白鳥のめがね
で、件の本を(十分読まないままに)近代日本語の理念という亡霊を呼び出すみたいな夢幻能的パフォーマンスになぞらえてみたんですけど、スタンス的にはどこか似たようなことをよりスマートに述べていらっしゃるのかな、と、次の記事をみつけて思ったりしました。

水村さんの日本論・日本語論のほうは、おそらくまともな文学者であれば「すでに亡びた賞味期限切れ」と判定するであろう言葉で綴られている、もう有効性を失っているソンビのような「批評の言葉」で綴られているということ。たぶん、書きたかったのでしょう。水村さんは、すでに死んでしまったものを愛する人なのでしょう。

それは別にいいのです。作家なのですから。
水村美苗という人の「釣り」?(「日本語が亡びるとき」) - 仕事の日記

水村美苗は叫んでいるふりをしているのか、叫ばずにはいられなかったのか、それともそういう二分法がそもそもナンセンスなのか、ということは別にして、私は私で急ぎ足で論旨をしめくくって、岸井大輔論としてこの一連の記事を閉じるつもりですが。

それで、蓮實重彦の『反=日本語論』は美しい書物だな、とこの機会にひさびさに手にとって思ったのですが、水村美苗について語るのに蓮實重彦を想起しないひとが多すぎることに失望したYO!

2008年12月7日(日) 晴れ
(略)
 「日本語が亡びるとき」の出版で突如沸き上がったさまざまな議論について、最も腑に落ちたのは、蓮實重彦の「随想 --- 文学の国籍をめぐるはしたない議論のあれこれについて」(「新潮 2009年1月号」)という文章だった。
(略)
「いずれにせよ、作家は『国語』を超えて言語と素肌で対峙するしかないという宿命から自由な存在ではなく」と蓮實は書いている。
http://el.jibun.atmarkit.co.jp/yakou/

件の雑誌は未読ですが、蓮實先生のご意見は『反=日本語論』の頃と変わってないみたいですね。
この機会に、丁寧に『反=日本語論』を読みたいとおもいます。

日本語論の輪郭は描けたので、この先、この一連の記事は、一回歴史的仮名遣いの話を補足したあとで、演劇と追悼をめぐって話を進める予定ですが、関連するかつての記事をひっぱりだしておく。

西郷信綱の『古事記の世界』 - 白鳥のめがね