フェルメールを見る(付き添って)

かつてネットで知り合った旧知の人おたべさんフェルメール展を見に上京するというので、お供した。平日だけどたまたま仕事は休みだった。30分待ちの入場制限はあったけれど、それほど混雑はしていなくて、同時代の画家については前の人の頭越しに流してみて、フェルメールの作品を見る。はぐれないように、おたべさんのペースにあわせてみた。
TBS「フェルメール展〜光の天才画家とデルフトの巨匠たち〜」/作品紹介

詩人の水無田気流が、子供のころから、博覧会だパンダだと何かと人ごみのなかにまぎれて並んでばかりの人生だっていうようなことを言っていて、それが戦後以降の社会の条件を端的に示すイメージじゃないかってことを言っていたけど、そういう風な感慨が美術展にもつきまとうところがある。人類史に特別に輝く名作の前に、大衆の一人として立たされる。

フェルメールの作品を、これだけ集めた労力もたいへんなものだったろうし、サブプライム問題の前のちょっとした好景気がなければこういう企画も成り立たなかったのだろうし、裏返せば、当分こういう豪勢な美術展にはなかなかお目にかかれないということになるかもしれない。

東京都美術館には、何度も足を運んでいるけれど、地下1階から2階にあがる階段手前の長方形のスペースに立つと、かつての展覧会の記憶がよみがえってくる。あそこだけは、空間の特異性を消しがたい構造になっているらしく、ここでルーベンスを見たな、とか、フィレンツェ展を見たな、とか思う。

同時代の画家の作品を並べるのは、展覧会の構成上の要請もあってもはやフェルメール展の定石といった感もあるけれど、美術史的な教養を啓蒙的に示すキュレーターの良心が試されるようなところもあって、今回の企画展ではデルフトであったという火薬庫の爆発事件をひとつのアクセントにしているところが興味深くはあった。火薬庫の爆発を主題にした絵画のあとに、火薬庫の爆発によって亡くなり、作品の多くが失われた画家の作品を並べていた。

こうして美術史的な眺望の中にフェルメールの作品が置かれると、一面ではフェルメール作品の要素が同時代の文脈においてもっていた月並みさが見えてくるのと同時に、やはり美術史的に特権的な評価を得るだけの特質があることも見えてくるし、逆に、美術史の中で再発見されるまで幾多の凡庸な画家のなかの一人のように埋もれていたというのも良くわかるのだった。

僕はフェルメールについては、それほど強く関心を持ったことはなくて、それほど(ルーベンスとかボナールとか蕪村に対するような)強い思い入れはもともと無いのだけれど、大学卒業するときにヨーロッパを一回りしたとき(オランダは入ってなかったが)ウィーンやパリでフェルメールを見たのが初めてで、その時にはギリシャ、ローマから現代までの美術史巡礼みたいな感じだったけどやはり感銘が残り、大阪でフェルメール展があったときにじっくりと、それこそ1時間以上居たと思うけれど、フェルメールの画面に耽溺したことがあって、なんだかそれで気が済んでしまったようなところもあり、今回は、わーこんなにたくさんあるんだ、とびっくりして、「小路」とか有名な作品に触れられたのにミーハーっぽく喜んでみたりと、すこしフェルメールとすれ違ったくらいの感慨にとどまったようだ。

リュート調弦する女」を見て、思いのほか暗い画面だと思い、そのほの暗さに何かなつかしくもどこか言いようの無い不安をかすかに掻き立てるようなものを感じた。窓の外は、晴天ではないような気配だ。どこかで映画を準備しているような絵画だという風に感じさせる絵があって、それは、とりわけヨーロッパの映画が美術史を参照していることからくる逆転した錯覚なのだろうけど、そんなところがある。
瞬間の気配を永遠化しようとする画家の目と手の間に、つかの間のものでしかありえない知覚や身体のはかなさとでも言うか、いずれは死ぬということの予告が込められているような気配というか、どこか寒々とした感じが漂ってくるようだ。おそらく、調弦の手を一瞬とめて、外からの音に振り向いている。画面の中には、室内と室外から来る音との残響が去った静寂だけがあるみたいで、そんな場面をことさら描こうとする構想そのものに、そこはかとない憂愁が取り付いているようにさえ思えてくる。ちょっと筆が走りすぎた(気持ちよくキーを叩きすぎてしまった)。

美術館を出て、「デルフトの眺望」を見てみたいですね、デルフトに行ってみたらよいかもしれない、と語り合いながら帰途についた。なんだか従者になった気分だった。