芸術と政治 ― Cut In のこと

今となっては誰ももう覚えていないかもしれないけれど、昔約束した話の続きを書いておこうかと思う。「Cut In」という小劇場情報を扱ったフリーペーパーと私との関わり、そして、私が思う芸術と政治との関わりについての、とりとめもないメモ書き。

(1)Cut In と私
かつて、庭劇団ペニノの『黒いOL』を見に行った感想を書いた*1
http://d.hatena.ne.jp/yanoz/20041111/

そのとき

オフィスワークと身体的労働を重ねながら、不条理な場面設定の中で、資本やシステムによって労働が非人間的なものとされていることを、告発といわないまでも、風刺する意図があるのかなんて考えてしまいそうだが、おそらく、それは当たらない*1。

*1:CutInにそんなレビューが載っても驚かないけど

という風に「余計」な注記をしたところコメントがついてちょっとやりとりがあった。

愚かな注を批判します 2004/12/23 01:28 >CutInにそんなレビューが載っても驚かないけど
何を考えて「CUT IN」に上記のようなレビューが載ると仮定できるのかよく分かりませんが、『黒いOL』について「労働の非人間性を告発ないしは風刺」なんてことを考えるのはあなただけです。お願いですから「CUT IN」を巻き込まないでください。

yanoz 2004/12/23 16:54 「愚かな注を批判します」さんへ。
匿名による批判は無視します。反論もしません。

そのときは「年明け続行ということでよろしく。」と書いてやりとりを打ち切った。そのまま今まで何も応答しないできた。しばらくは応答しようと考えあぐねていたけれど、自分にとってはデリケートな問題で、慎重になってしまう理由があった。多分、そこに個人的な事情と、政治と芸術をめぐって自分がかかえていた未解決の問題が横たわっている。それは、いまだに未解決ではあるのだろうけれど。

CutInについて細かい説明は省くが、ここにバックナンバーがPDFで保存されている(ただし網羅的ではないようだ)。
http://www.tinyalice.net/cutin/

上に引いたコメントは、CutInの関係者による書き込みのように見える。私が「匿名による批判は無視する」と書いた時、関係者による書き込みであるかどうかがあいまいなまま進むよりは、身元を明らかにしてもらった方が良いという思いもあった*2
それから、私自身、何度かCutIn紙に寄稿していたということもある。この件でCutInの編集サイドともめたりして、自分が文章を発表できる媒体とのつながりを失いたくはなかった。なので私の利害からすると、このコメントを書き込んだ人が誰なのか明らかでないのは私にとっては不都合だったし、応答も慎重にすべきであると思われた*3。反面、自分がCutInと何の関わりもなければ、上に引いたような「当てつけ」めいた余計な注記を書くことも無かったと思う。
その後、CutInをはじめた初代編集長の井上二郎さんが亡くなられた。後継の編集長が刊行を引き継いだが、その後しばらくして刊行が止まったと聞いている。
追悼記事が載ったCutIn↓
http://www.tinyalice.net/cutin/backnumberse/cutin58.pdf
私は井上さんにお目にかかったことはない。CutInと関わりのある劇場の関係者から執筆を薦められて寄稿するようになった。CutInが復刊することがあるかどうかわからないが、自分のダイアリーを読み返していて、数年来気がかりだったことを思い出した。今なら、ある程度思っていたことを素直に書けそうだ。

(2)CutInに載っても驚かないわけ
「何を考えて「CUT IN」に上記のようなレビューが載ると仮定できるのかよく分かりません」と匿名氏に疑問を呈されたわけだけど、『黒いOL』を資本制批判的に解釈するようなレビューが Cut Inに載る可能性があってもおかしくないと私が考えたのには理由がないわけではない*4。私がそのようなことを思った理由を簡単に言えば、まず、CutInでは反戦の立場が表明されていたり、体制批判的な内容が上演評の中に含まれていることが多かった*5。例を挙げれば、ゴキブリコンビナートの公演についても、その上演内容を社会批判として積極的に評価していたレビューが載っていたという記憶がある。
私自身は、ゴキブリコンビナートの舞台は、たとえそこに身体障害者に対する差別を告発するような言辞が含まれていたとしても、露悪的なエンターテインメントに他ならないのであり、既に誰もが知っている差別の実態をなぞってみせ、誰もが知っている正論をなぞってみせるに過ぎないもので、キワモノ的な好奇心をかきたてることはあっても、政治的なメッセージや有効性を持つものではないと判断すべきだと思っている*6ゴキブリコンビナートの上演を社会批判として正しい舞台であると評価する記事が掲載されるなら、『黒いOL』についても同様の舞台評が載ってもおかしくはないだろうと私は考えた。そのような舞台評が寄稿されたときに、それが却下されたとは思えない*7

(3)あえてCutInに言及した気分
たとえば、ゴキブリコンビナートのような劇団の公演を社会批判的なものだと言って肯定的に評価することは実際に社会的問題を解消するなり、改善するなりする上で何の役にもたたない上に、逆効果でさえあるのではないか、当時そんなことを思っていた。
自分が批評的な文章を書くときにはソンタグの『反解釈』がひとつの基準としてあって、政治的な解釈を作品に施すことが芸術に触れる経験の可能性を狭めてしまう、逆に無害化してしまう、そんな風なことも思っていた気がする。

反解釈 (ちくま学芸文庫)

反解釈 (ちくま学芸文庫)

体制に対する反体制として、劇場という場所を語ってしまうことは、結局は体制に抗する足がかりも、根拠も、戦略も与えないのではないか……結局、自分たちの居場所を「反体制」的な感情の捌け口の場所としてしまうことによって、自ら「ガス抜き」の場をしつらえ、体制補完的にふるまってしまうことになるのではないか……大雑把にいえば、そんな風なことを考えていた*8
しかし、私には、上のような「当てこすり」的な注記の先に、議論を深める力も勇気も無かった。CutInを「巻き込む」だけの意志も無かった。

(4)それで?
別に、過去の自分の言動を正当化するつもりもないし、卑下するつもりもないのだけれど、考えが足りなかったのは確かだろうし、あやふやな姿勢をとっていたとも思う。

ちょっと話はとぶけど、サミットがらみのデモの話を読んだ。
http://d.hatena.ne.jp/zarudora/20080705/1215278288
http://d.hatena.ne.jp/zarudora/20080707/1215448475
何のためにデモをするのか、どう効果を考えるのか。警察からの暴力が事実不当なものとしてあり、デモがそれを引き起こすものならば、その結果をどうアピールしていくのか、その作法も含めて、政治的な戦略が問われるのかなあなどと思ったりもする。
「デモこわい」、とか、「平和とか言ってるやつらキモイ」とか、そういう反応があるとして、そういう発言にどう応答できるのか、どう扱えるのかもふくめて、政治だろうと思う。

おそらく、自分はこれからも明確な政治的スタンスを高らかに示すようなことはしないだろうと思う。あいまいな姿勢を示すことが糾弾されないような社会が続くだろうという予断の下にそう思う。

ただ、今の時点で政治について考えたことは、こんなことだ。他の人の、政治的な発言の仕方について、あれこれ批判的なことを言ったり、当てこすりをしてみたりしても仕方が無いのだろう。効果があるかないかといったことは、また別に考えれば良いことだ。応接したくなれば応接すれば良い。そのためのきっかけをどうつかんで生かしていけるのか、それだけが問題なのだろう、と今はそう思う。
軽率だろうが熟慮してだろうがかまわない。誰かが、政治的姿勢を示したり、政治的な発言をする。そのこと自体、政治的な行いが始まるきっかけ、応接する場を開こうとしていることなのだから、自分がそこに関わること自体、政治的なことなのだということを明確にしておけば良いのだろうと思う。別に、ちょっかいで終わってしまおうが、いさかいで終わろうがかまわないのだろう。うまいやりかたを手探りするなかに、自分なりのスタイルが見つかればいい。

(追記)
岸井さんのポタライブの活動にも、政治的な側面が切り離しがたくあって、でもそれは、単純に右だの左だの前だの後ろだのと空間的な指標で名付けようのないものだ。いずれにせよ、人と人との関係が創造的なものであるための条件が探られている。そのこと自体に政治的に言っても比類ない価値があるような気がしている。

岸井さんのインタビュー↓
http://www.wonderlands.jp/interview/008/index.html

*1:最近になって『動物化するポストモダン』を読んだところ。それでこのレビューを読み返すと、『黒いOL』に私が感じていた印象って、「データベース消費」的な舞台のイメージ構成に対する違和感とかって言い換えられそう。見事に時流に逆らった議論を立てていたな。自分の判断基準は見事に前時代のものだったというか。まあそれだからと言って基本的に自分の考えを変えるつもりはないのだけど、もうちょっと批評のモードをくぐった上での語り方はできただろうなと思う。

*2:今でも別に、匿名批判にいちいち応答する責任を負う必要があるとは私は考えない。そういう責任を負わなければ、自分の名前を明かしたブログに文章を発表してはならないとも思わない。そう思いたい人がいてもかまわないけれど。あと、なりすまし云々の話にもここでは立ち入らないが区別して考えるべきことには違いない。ここでいまさらかつてのコメントに応答するのは、応答するとした約束は果たすべきだったと思うからで、それだけのことだ。

*3:この一件の後もCutInに寄稿する機会はあった。60号にポタライブ評を書いている。井上氏から編集を引き継いだ小笠原氏から依頼を受けて寄稿した

*4:そう想定すること自体が正しいかどうか、それを表明することが正しいかどうか、そういう正当化とは別の話だ

*5:上にリンクしたCutIn58号の井上二郎さんの追悼文を見れば、そうした傾向があったことがお分かりになると思う。

*6:私はゴキブリコンビナートの作品はひとつしか見たことがないので、1公演を見たうえでの推測を語っているにすぎない

*7:もちろん、却下されるかどうかというのは仮定の話に過ぎない。実際に載ったのは確か女性性という軸で解釈した舞台評だった。女性性を読み込むというのも抽象的な話で作品の評価としては外していると私は思った。タイトルにOLとあるとおり、あくまで「女性の労働」があの作品のモチーフなのだから。

*8:またもや「愚かな注」かもしれないが、あえて言っておけば、大駱駝鑑というのは半ば確信犯的に体制補完的な反体制の姿勢をスペクタクルとして展開していると言えると思う。擁護なり賛美なり、したい人はすれば良いだろうが