チェルフィッチュの『エンジョイ』(2)

岡田利規(って書くとキーワードリンクされるので書いてみた)の新作について。

前回も引いた「ブロググビグビ」では、
http://assaito.blogzine.jp/assaito/2006/12/post_607b.html
「始まってしばらくは、いつもとちがうなあということに戸惑ってみてた」と言われている。この戸惑いは、僕も共有していたので良くわかる。

岡田さんの創作の歩みを追って行くと、『エンジョイ』は様式的には後退なんじゃないか、という疑念が浮かぶ。僕は、「こんなに長いのに、情報量としては『労苦の終わり』なんかの方が密だったんじゃないか」と思っていた。

そこで『ブロググビグビ』の伊藤さんは、チェルフィッチュの近作と新作の相違について触れていて、勝手に要約すると、『エンジョイ』は、再現的なリアリズムに近い場所にあると指摘しながら、主題の要求がもたらした様式だったのだと納得する、という議論をしている*1

それで、伊藤さんの議論とつながる指摘だなと思ったのは、『偽日記』での古谷さんの以下の指摘*2

「一体、演劇というのは、どのようにしてはじまるのだろう」という興味がちょっとあったのだけど、普通に、一旦照明が落ちて暗くなり、音楽がかかる、という、ベタなはじまり方で、ああ、やはり、こういう分りやすいフレーミングというか、普通の時間からの切断のようなものが必要なんだなあ、と思った。(いきなりバラバラと俳優たちが出て来る、というのをちょっと期待したのだけど。)

http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20061212

もはや記憶があいまいで、実際どのように舞台が始まっていたのかちゃんと覚えていないのだけど、こういうフレームは、しかし、それ自体ずらされていたようにおもう。額縁も作品の一部にしてしまっているような。
たとえば、役者による開演の説明と同時並行して、スクリーンに「指人形」のライブ映像がオープニングを演じてみせる重層的な展開は、いくつものフレームを重ね合わせたものだったはず。

『ブロググビグビ』が言う「語りや演劇の枠構造にふれるという軽やかさによって観客に快感をもたらす」というのとは違うとしても、やはり、『エンジョイ』には「枠構造」への言及はある。それが、どう機能していたのか、というのがとりあえず問題。

四幕構成というのも、そうしたフレームのひとつになっている。2幕あたりでは「これで2幕は終わって結局のろけられないままでした」みたいな舞台上でのメタフィクション的自己言及があったりして、言葉の上で幕と幕の間(って物として幕はないんだけど)の区別がされていても、そこはゆるやかにつながっていたと思う。

それが、4幕は、スクリーンに黒地の白抜きで「第4幕」と厳粛な面持ちで投影されるのがそれまでの流れを切断するような効果を発揮していた。

その切断の印象が強く残っていて、でも、その印象をまだ位置づけられないでいる。保留して先に進もう。

あと、気になった記事についていくつか。

『東京猫の散歩と昼寝』
http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20061216#p1
は、

演じているほうも演じているほうで、**さん・ナレーター・司会それぞれの位置にいれば、当人の生の体や心はやはりそれぞれの位置にどうしてもひきずられ、心理や仕草がいくらかは揺れてしまう、つまり完全なコントロールはできないのではないだろうか。そういうヘンテコなところに、演じられ見せられている位置の現実感と、今この場に客としている位置の現実感とが混ざり合い、それら全体がなんとも不思議な体験になるのだろう。

いやまあ、そういうのを演劇というんだよな、と思い直し、おかしいな私はきょう演劇を生まれて初めてみたんだっけ、などと首をひねるのであった。

という議論をしている。演劇という概念に初めて出会うみたいな、出会いとして演劇が生起してくるみたいな、初々しい感想を述べられているのだけど、「会場に集まって椅子に座って眺めている生(なま)の我々に向けてしゃべっているのではない、ということなのだな、たぶん。」と指摘している。ここは重要なポイントだと思う。

同様の指摘は「ine's daypack」もしていている。

「これから○○○っていう話をやります」という冒頭の台詞に象徴されるように、チェルフィッチュの舞台では第4の壁が取り払われていると言われているが、厳密にはそうではない。観客ははっきりと役者にも届くような声で笑ったりするのだが、役者はそうした反応には気づいていないかのように振る舞う。役者は物語の外に立ち、観客に向かって語るが、観客の存在を無視している。あるいは応答しない。このねじれた関係によって、私たち観客は無言の聴衆の役割を担わされている。そのため、時に自分たちが、ミズノ君が聞いてしまう”世の中の声”を語る主体であるかのような気分にさせられてしまうのだ。

http://ine.way-nifty.com/daypack/2006/12/post_3d93.html

これはなかなかすぐれた批評ではないかと思う。
即興的な客との応答をあえて行わないというところに、岡田さんの方法のポイントがあるはずだ。

「予防回収的態度」の論点も興味深く、この点に反感を感じたという感想も散見されるのだけど、これは、舞台の構造や主題の扱いにも深く関わっている問題だと思うので、折を見て更に触れてみたい。

それから

トラフ設計事務所のブログ
http://torafu1.exblog.jp/5099645
では

岡田さんは、今回の新作が新国立劇場で決まった際に、舞台美術の相談にトラフを訪ねてきてくれました。ここでは関わることが出来ませんでしたが、是非一緒にやれたらと思ってます。

と書かれていて、どんな相談がなされたのか、とても気になる。岡田さんがこの件についてどこかで何か言っているのかどうか把握してませんが、初めから岡田さんが舞台の構造を気にしていたってことがわかりますね。


とりあえず、だらだらとこんな風に覚書を続けますが、ある程度まとまったら、整理してダイジェストしてみようかとも思ってます。

*1:見ながら考えたことなんだろうな、と伝わってくる文章で、自分の期待を修正すべき理由を探りつつ見るという誠実で模範的な鑑賞態度だろう

*2:偽日記の熱心な『エンジョイ』論は読み応えがある。他の論点についてもの後から触れてみたいと思っている