チェ『エンジョイ』(2.5)― 舞台と政治についての書きつけ―

チェルフィッチュの『エンジョイ』の件でリンクしてくれた中西Bさんが前回書きかけた「フレーム」うんぬんの話でこんな考察を。

普通の演劇では普通に枠がありますが、美的強度(上演の自律性)が強いチェルフィッチュではそれは普通には必要ありません。ですから今回の普通の上演のような枠組みの導入は、政治的であるための上演の遂行性の追求の結果だと思います。

http://d.hatena.ne.jp/NakanishiB/20061222/1166771109

グビグビの論考とはまた別の角度からの議論になってますね。グビグビの話は内容が形式を要求するという枠組みで芸術作品としての『エンジョイ』の上演は現実を対象として距離を置いて映し出すものとしていわば静的に捉えられているけれど、中西さんはそのあたり「上演の遂行性」において、作品が現実に介入するダイナミックな関係として捉えている、という風に整理できそうな何か。

それで、こういう問題系についてはヤスミン・ゴデールの公演についての感想から考えてみたことがあった。
http://www.wonderlands.jp/index.php?itemid=417&catid=9
これ書いたときは、結論にうまく着地できずに自明性の地平に帰ってしまった(とか書くと気取りすぎなので)というか、結局考えなくてもわかるところに戻ってしまったので、まあ、考えあぐねた結果ああいう結びになったのだけど、もうすこし解きほぐして考えてみたいんだけど、デリダとか?若い頃の?読み直してみるとか? ルソーの『演劇論』に対するデリダの向き合い方というのはすごく気になっているところだったのだが・・・・。

とか、そういう所に色気を出している場合じゃなくて、美的強度?と枠?みたいな?あたりをちょっと考え直してみるべきかもしれない。とぐだぐだ考えていると他の感想を読んでいる時間がもう無いのだけど、年末年始にどれだけ読めるかどうか。