チェルフィッチュの『エンジョイ』(1)

『エンジョイ』に関するネット上の感想や批評をグーグルで上位にヒットするものから順番に読み始めた。時間の許す限り年始にかけて丹念に読んでみようかと思っている。今日読んだいくつかについて言及しながら、『エンジョイ』についての考えを進めてみたい。

fringeのブログが『エンジョイ』のビデオの使い方について「2003年に神楽坂セッションハウスで上演された、なぎさにゆこう『恋と自分/とんかつ屋』と同じ手法です。」と指摘している。

http://fringe.jp/blog/archives/2006/12/13160355.html

手法だけでなく、内容のモチーフにおいても、『恋と自分/とんかつ屋』に通じるものがありますね。メッセージビデオを残す登場人物だとか。
一点指摘すると、『恋と自分/とんかつ屋』では、ビデオメッセージを残して引きこもってしまう(んだったっけか)登場人物が「女の子と付き合おうとか思わない、だって臭いでしょ」とか言うセリフがあったと思う。その点、『エンジョイ』では反転した仕方でモチーフがつながっていますね。仕事場と恋の話になっているところも通じている。時間が許せば、そのあたり後でもう少し踏み込んで書いてみようかな。

あと、社会問題としての取り上げ方うんぬんという批判については、フリンジでの荻野さんの主張の趣旨に半ばは同意するのだけど、こういった言い方ではまだ作品論に十分踏み込んではいないわけで(まあ、感想としてお書きになっているのでそれでなんら問題は無いのだが)、この点についてはちょっと(気長に)考えてみたいと思ってます。

「ブロググビグビ」は、

舞台を「坂」にすることで(中略)坂をつーとすべるとか、坂の下のはしっこらへんにたまるとか、そういう情けない動きを自然につくっていた。

http://assaito.blogzine.jp/assaito/2006/12/post_607b.html

と指摘していて、正しい観察だと思う。第一幕で松村さんが坂を滑っているのが印象深くて、観客に坂への注意を喚起しているんだろうな、と思った。
坂の下にたまっちゃうというのは、でもやっぱり見ていてちょっと窮屈で、坂になっていることで空間の使い方が制限されている印象の方が強かったのだけど、そのあたりは自分の見方が偏っていたかもしれない。スクリーンの真正面という位置もかえってあまり良くなかった気がする。

それからブロググビグビの伊藤さんは

全体として語りや演劇の枠構造にふれるという軽やかさによって観客に快感をもたらす、ということがほぼ皆無。いってみればそういう快感はきわめてアート的で安全で知的なものなので、今回の作品が社会派の叙事演劇を目指していたとすれば、このストイックさは必要不可欠なものだったのだろうと思う。

と言っていて、これも重要な指摘だとおもう。それはそれで納得の指摘なのだけど、その解釈ですべて問題がクリアされているのかどうか、判断を留保したい。

最後に、「shinaco,doconoco」は、第4幕について

 大スクリーンに映る大学出たての女の子。彼女は、うれしそうに恋を語り、この時がずっと続けばいいと話す。ついさきほど、30歳カップルの恋の終焉(男側からではなくて、女が男のふがいなさゆえに別れを切り出したというものだった)を観たばかりの私としては、なんだかとっても後味の悪い場面だった。この後味の悪さも賛成って思った。

と書いている。
http://d.hatena.ne.jp/shinaco/20061213

素直に作品と向き合う姿勢に好感を持った。こういう観客を得られるだけでも、作品として成功だとは言えるだろう。

でも、私としては、あんまりものわかりの良い評で終わらせたくはないなと思っている。

id:shinacoさんの感想を読んでいると、なんだか良い作品だったなあとかという感慨にうっかり浸ってしまいそうになるけど、どこかやはり、後味の悪さを肯定的には受け取れないという見方を私はしてしまったはずだ。自分がそういう見方をしたということに何らかの仕方で、決着をつけておかないといけない。そんなつもりで、賛否両論を追ってみたい。