金魚(鈴木ユキオ)の『犬の静脈に嫉妬せず』 

 アゴラ劇場で見る。前に、鈴木ユキオさんは舞踏界隈から「コンテンポラリーダンスに日和った」とか言われたという噂を聞いたことがある。
 今日終演後知り合いに「これって舞踏なんですか?」と聞かれて答えに窮したんだけど、「創作理念」「方法論」「様式」を区別して考えたとき、結果としての様式にまとわりついた舞踏のイメージから自由になって、舞踏の理念とか方法論の何かに対峙しようとした結果とは言えるのかもしれないけど、そのへん私にはよくわからない。
 
 で、以下、見ながら考えたことをちょっとメモしておく。
 前からダンスにおける、単独性、同期性の1でも、対面性の2でもない、3の可能性、とかいうことを漠然と考えていた。で、今回の作品の冒頭のパートや次のパートでトリオの場面が続いたので、ソロやデュオに解消されないトリオの可能性ということをまた考えていた。そうしたら、次に4人になる場面がきて、馬鹿らしいけど自分としてはその3が破られる瞬間がちょっとショッキングだった。同期でも対面でもない可能性としたら、ひとつ傍観というものがあるよな。なんか、作品構成の原理として、脇に居る、脇に置く、というものがあったような気もしつつ見ていた。

 あと、ぶつけるとか、叩くというモチーフが多くて、そこから出る音に、ある種の耳障りさを感じていて、その耳障りな感じは何かなあと思っていたのだけど、動物である人間はやはり身体レベルで警戒のスイッチが入るんじゃないかな、ということをちょと考えながら見ていた。

 一年以上ぶりに武藤大祐さんのダイアリーを見たりして、見る側の身体ということに注意を向けられていたということもある。

 あと、暗転の多用がやはり気になる。暗転というのは、振付の問題ではなくて、舞台造形のレベルの問題だと思う。劇場が黒くされる理由のひとつは暗転の効果ということがあるということを今日始めて意識した。このあたり、考えておくべきことがありそうだ。

 長い木材と、ぽつぽつと虫食いのように穴の開けられた(熱い油を散らして焦がしたみたいな穴)青いシートを湾曲させて客席間際の天井につるしていたり、琺瑯の大きな洗面器を置いていたりといった舞台美術も美しかった。

 それと、奈落にするすると呑み込まれるように落ちる場面が二回あったのだけど、見事な落ちだった。コントロールを放棄して、落下にゆだねるまでのプロセス。

 もうひとつ。「金魚」のダンスを見ていると、ある種の硬質さを感じる。この質についても、何かきちんと言及しておくべきことなのかもしれない。