開演に間に合わない

 タイトルを考えるのが好きだ。「開演に間に合わない」というのも、劇評関連のタイトルとして思いついたもの。

 今日は、午前中妻と妻が参加している短歌同人誌の方と、年末特別号の発送作業を大急ぎで終わらせて、新国立劇場に駆け込んだ。
 席についてちょうど開演予定の1時1分前といったところ。お昼抜きになってしまった。「エンジョイ」を見るのにちょうど良いシチュエーションだったかもしれないなあと思いながら見ていた。

 で、「エンジョイ」についてだけど、率直な感想として、見ている間、第三幕は説得力に欠けると思った。第四幕は理解に苦しんだ。


 もう何日か上演されているので、感想の類がネット上にアップされているのだろうけど、見てない。かわりに、ここ一年見ていなかったチェルフィッチュブログの直近のところを見直したり、前回の記事にトラックバックされていた「*S子」さんの記事を読んだりした。

http://passage.tea-nifty.com/firedoor/2006/12/post_0058.html
(非常に重要。リンク先を読み逃していた自分の不明を恥じるばかり。リンクはエールと受け取りました)。

 それで、これから何か感想を書く前の心構えは整ったという気分。

 さて、私は、いつの間にか、チェルフィッチュのメジャーな近作で(ダンスとかの小品を抜いて)描かれる側の立場に回されているなあという気分で、もうこのところ、内容的には身につまされてばかりだ。

 正直な話、若い方のフリーターたちに、軽くいらっとする(もう登場人物の、とか留保をつけている余裕はない反応)。

 たぶん、そういう風に直接な反応をしてしまったことを抜きに何かを語っても、意味が無いという気もする。
 けれど、それは別に作品についてどうこうということとは別に、自分で考えておけ、というところだろう。


 多少ぼんやり見ていたのでディテールを取り違えているかもしれないが、第三幕で「第一幕冒頭の語りはある点で事実とは違う」、という訂正が入って、第四幕では、第一幕、第二幕とは共存できない、別の現実(というか、ストーリーというか)が語られる。以下、その前提に立って話を進める。

 第三幕と第四幕によって上書きされると、第一幕と第二幕で主要人物不在のまま物語の焦点になっていた、「若い彼女を得た話」は、あたかも、フリーター男の妄想の物語みたく見えてくる。

 きっと、第四幕のような処理は、よほどの確信が無いとできないことだ。かなりの意欲がそこにあるはずだ。
 家に帰って、そう思いながらも、結論は出せないまま、こうして書き始めてみた。

 「第一幕と第二幕を妄想と片付けることで、第三幕、第四幕との整合をつける」というのが、僕が舞台を見ながら(追い詰められるように)咄嗟に取っていた解釈で、それは多分、そういう誘導は作品自体に組み込まれていると思う、んだけど、別にそういう方向に作品の意図は無い、と考えないと、あまりに投げやりな失敗作としか受け取れなくなってしまう。

 で、第四幕をどう見るか、結論の見えないまま書いてきて、ここでひとつ自分なりに結論がついた。

 第四幕は、観客がどのような物語を欲するのかを試すようなものではないだろうか。というのが暫定的な結論。

 それまでの三幕で語られてきた物語の断片は、整合的なひとつの現実を描きそうでいて、それをひっくり返すような第四幕が置かれている。おいおい、あの面白そうな話はどう決着つくんだよ、というところで、とてもありがちで正直なところあまり面白くない話だけが語られる。

 あの第四幕は、物語への欲求を頓挫させて見せたところで、それぞれの観客が、いったい物語に何を期待していたのかを問い返すように仕向ける、そういう仕掛けだったのかなあなどと思っている。

 そこで、自分の解釈に映し出された自分の姿を、自分で考えるのがそこから先の自分の役目なのだろうが、そんなことはこれ以上、ここに書く必要は無いだろう(第三幕に説得力を感じなかったとかいうことも含めて)。

 と、そういう風に受け取ってみたのだけど、そうすると、欲求をかきたてておいて、裏切るのが作品の意図だということになってしまって、これじゃあ、舞台を見て積極的には受け取らなかった人に、「そうは言っても良い作品だったんですよ」と力説できるような受け取り方ではないですね。

 あと、上演について思ったことをいくつか。

 基本的に黒い新国立劇場の小劇場で、主な演技スペースは白い。そして、傾斜がつけられている。これは地味だけど、大胆なお金のかけかたで、新国デビューなのに方法的に難易度の高いことをあえてしているのは、結果としてどこまで成功していたかは別として、カッコいい。
 岡田さんの、手堅くメインストリームで成功してしまうことへの抵抗が半分働いているのだろうか、とか思う。

 客席から直接見えないところに、見える表面よりも手間とお金をかけたと思えるセットが組まれていて、ライブでカメラによって写される。カッコいいお金のかけかただと思う。そこから舞台の構造についていろいろカッコよく論じることはできるだろうけど、まあ、今の私にはそういうことにはあまり興味は無い。最後に映像でホームレス風な男の扮装をして画面に映るあからさまな作り物っぽさというようなことも含めて。ホームレスをホームレスと直に言うのが第三幕で出てくるフリーター男だけ(だったと思う)というのも重要なポイントなのだろうな。

 レゲエがかかるというのは、髪が絡まって自然とドレッドヘアみたいになっている人が居るということにちなんで垢にまみれたホームレスの人を「レゲエのおじさん」とかと言う慣わしがあったことに半分かけているのだろうけど、半分は、ラスタの思想性みたいなものへの敬意というのもあるのだろう、と見た。そうだとして、ユーモアというか皮肉というか、いろいろ論じてしかるべきポイントかもしれないけど、私の手には余る。

(12/17、一部削除の上加筆訂正)