土方巽の生成変化と舞踏の伝統

私には舞踏についてはそれほど深い知識も経験も無いのだけれど、私が知りえた断片的な情報や経験に即して言うと、和栗由紀夫という人は、土方巽の教えに忠実でありすぎるためにかえって忠実ではないことになってしまっている人ではないかなあという風な認識が私にはある。確かに土方巽が通り過ぎたあるひとつの領域に、いつまでも留まっている人なのではないだろうか。たとえていえば、芦川洋子と土方巽の間に起きたことは、和栗由紀夫の舞台にはほとんどなんの残響も残していないにちがいない(といっても私は芦川洋子は映像でしかみたことがないけれど)。土方巽の舞台はどんどん変貌していっただろうし、土方巽がもっと長く生きていたら、舞踏が今のような様式に固定されることもなかったのではないかと考えたりもする。しかし、土方から受けた教えを身体に繰り返し刻み直して保存してきたような人ではあるのだろうから、舞踏の無形文化財的な人ではあると言えるのかもしれない。