おじいちゃんとヴィトゲンシュタイン

祖父が生きていた期間と、ルートヴィッヒ・ヴィトゲンシュタインが生きていた期間が重なるということに、ある日ふと気がついた。二人とも、同じ世界史的な出来事である、いわゆる第二次世界大戦を経験している。そのこと自体は、別に、驚くべきことでも何でもない。

だが、このことにはじめて気がついたそのとき、逆に、それまでそのことを一度も考えたことが無かったということに、我ながら驚いたのだった。

自分の生い立ちや家族の歴史が位置付く座標と、大学で学んだ西洋哲学史の年表とが、私の頭の中では、まったく別のものとして交わることがなかったのだった。その、祖父とヴィトゲンシュタインの生涯がおなじ出来事、同じ時空を共有していると気が付くまでは。


祖父が死の床にあったとき、大学の夏休みで帰郷していた私は、何度も病室にみまったものだけど、丁度そのころ『論理哲学論考』を読んでいたりした。哲学専攻の大学三年生だった。病院の屋上で、『論考』の内容について思いをめぐらせていた経験が、夏の曇天の下にそびえる山並とその裾野にひろがる市街の光景と共に甦ってくる。

そのときには、おそらく、祖父の生涯とヴィトゲンシュタインの生涯が同じ時代のなかに刻まれ得るものだということに気付かずに、幼稚な形而上学的思弁に耽っていたに違いない。

大学に入って西洋哲学の世界を軸に思想史を学んだ経験は、自分の生きる世界を全く別の仕方で見るような、あらたな視点を開いてくれた。それと同時に、それまで住んでいた故郷は、自分がそこで生まれ、育った場所であるにもかかわらず、なにか遠く居心地の悪い場所になってしまったかのようだった。

日常の自明性の中に埋没することで、初めて生きることができていた故郷に対して、世界史的視野を持ち込もうとすることに、微妙な疎隔感がつきまとった。大学で学ぶことで変わってしまった自分の考え方やものの見方は、故郷に帰るたびに、故郷を再解釈することを要求するのだった。そのころは、帰郷するたびに、やけにしつこく質問して、祖母や母から昔話を聞き出していたように思う。

死ぬ前の祖父からも、戦場の話や戦前の東京の話を聞くことができたのは、幸いだった。祖母からも、製糸工場で働いていたころの話や、軍需工場に動員されたときの話や空襲を受けた豊橋からいかにして帰郷したのかの話を聞くことができたし、母からも、電子機器の工場で働いていた昔のことや、まだたくさん映画館があったころの故郷の地方都市の話や、グループサウンズがブームだった頃の話を聞いたりした。

そのようにして、僕は、自分が自明のものとおもっていた家族環境を世界史のなかに再解釈しようと努めていたらしい。今では、あの頃のような熱意を持って昔話を家族から聞くということは無くなった。

それから大学院に進学することになり、19世紀フランス哲学の歴史なんていう、あまり人が知らないようなことにもちょっとだけ詳しくなったりした。

そして、母は母で家財道具を処分しはじめたりして、祖母の老いと自分の老いを二人で支えていける体制を整えるようになった。もう父もなく祖父もいないのだ。

それで、大学院をやめる前の一時期、フランスに留学するのをやめようか、それとも、やはり思い直してチャレンジするべきか、と考えあぐねていたときに、この、世界史的展望と自明だった故郷の生活環境との擦れ違いのことを思い出していた。

フランスに留学するということは、おそらく、世界史的展望と故郷との齟齬を、もう一度広げるような作業を伴うものだったのかもしれない。世界の自明性に安住することを退けるようにして、自分の生き方を根こそぎ改めるようなこと。

結局、世界史的視点による反省みたいなものを経ても、やはり、自分の生き方の根底にしっかりとした「バラスト(底荷)」を据えているのは故郷で生きた日々だったみたいで、そんなわけで私は、故郷に地続きであるような日本経済の現状の中に足を踏み入れようと試みることになったのかなあ、ということを考えていた。

(2008年7月29日 mixiから転載)