斉藤斎藤/読む私書く私

斉藤斎藤の短歌を読むときに哲学について考え、哲学の本を読むときに斉藤斎藤のことを考えてしまう私。そんなもの思いの一端をメモとして残しておきたい。

まず澤田直さんの『新・サルトル講義』(平凡社新書)から引用する。

なぜ「読むこと」が問題なのか。それは、読むことが何よりも独我論から脱出する道であり、<同一者>へ原初的な亀裂を入れる行為だからだ、とサルトルは考える。
「本を閉じてしまえば、我々は好きなことができる。しかし、読んでいる間は、我々は自分の可能性を剥ぎ取られ、我々に不動の可能性を押し付ける登場人物の身体のなかに裸で入り込まねばならない。」
つまり、 読書とは私たちに他者になることを許す特権的な行為なのだ。
      (162-163頁)

斉藤斎藤『渡辺のわたし』「松井2打点」の一連を締めくくる次の3首は、末尾におかれた「とあるひるね」という題の一連のテーマをあらかじめ描いている。

ぼくはただあなたになりたいだけなのにふたりならんで映画を見てる

私と私が居酒屋なので斉藤と鈴木となってしゃべりはじめる

公園通りをあなたと歩くこの夢がいつかあなたに覚めますように

読者が、活字を眼で追いながら一首一首に入り込むとき、裸の私になってゆく。この、読者と作中主体とが重なり合う距離と同じ距離が、一首の作中主体と一首が描こうとする状況の間を隔てている。ここで「私」は、一人称代名詞であることをやめて、一種の普遍的な主語のようなものと化して、ぼくをぼくにし、あなたがあなたとなる手前の領域を名指そうとしている。

次に、永井均の『私・今・そして神』(講談社現代新書)から引用する。

基本的に私は・・・・「私」と「今」とは同じものの別の名前なのではないかとさえ感じている。そもそもの初めから存在する(=それがそもそもの初めである)ある名づけえぬものに、後から他のものとの対比が持ち込まれて<私>とか<今>とか、いろいろな名づけがなされていく・・・・
                     (40-41頁)

他人と対比すればわたし、過去や未来と対比すれば今……「対比が持ち込まれた後では、あたかも対比がなりたつための共通項がもともとあったかのような錯覚が生まれる」(41頁)と語りながら、永井均は、そのそもそもの初めとして初めからある比類ない領域を「開闢」と名指して、この新書本全体でその名づけえぬものについて、語り終えてしまわないように語り続けていくわけである。

対比がなされてしまうと、開闢の例外的なありかたは、人間一般とか時刻一般といった共通項のひとつとされてしまう。開闢のなかから生み出されていたはずの時系列や対他的な人間関係の中に、開闢そのものが埋め込まれてしまう。「そのことによってわれわれの現実が誕生する。だから、現実は最初から作り物であって、まあ、最初から嘘みたいなものなのだが、しかし、それこそがわれわれの唯一の現実なのだから・・・・」(43頁)

永井均流に言えば、開闢の領域をまたいで、私とあなたが不断に入れ替わっている可能性だって常にある。ただ、わたしがあなたになってしまっているときには、わたしはあなたなので、入れ替わったとさえ思わないだけである。そして、私たちの現実を成している「この夢」は、その入れ替わりの可能性を否定できないからこそ、この現実として、湧出するか雪崩れているか、するのだ。

では、問題の『渡辺のわたし』を締めくくる「とあるひるね」の一連から三首拾ってみる。

ひるねからわたしだけめざめてみると右に昼寝をしているわたくし

あなたの匂いあなたの鼻でかいでみる慣れているから匂いはしない

カラスが鳴いて帰らなければなにひとつあなたのわたしはわからないまま

私は、このフィクションに、ある絶対的な現実性を感じる。このフィクションは、読む経験において常に生起している何事かについて書く側から語っている。

それが実体験に基づくものにせよ、空想の経験に基づくものにせよ、一首の短歌を読むときに、そこにある主体がたちあがるとしたら、それは、わたしがあなたにのりうつるような体験として成り立つものなのだろう。

だから、「とあるひるね」のフィクションは、およそ写生なりリアリズムなり、短歌において何かの描写が可能であるという条件そのものに何も付け加えなくても成り立つものとしてある。

リアリズムを成立させている機構(たとえば人称代名詞も複数の機構の働きの複合の結果として了解されているというような)を分離して再構成するだけとでも言える作業から、わたしがあなたになるというフィクションは成立するのであり、それは、常にあらゆる短歌を読み書くという経験に潜在しているものを、顕在化しているだけなのだ。

・参考図書リンク

斉藤斎藤『渡辺のわたし』(歌葉)
http://www.bookpark.ne.jp/cm/utnh/detail.asp?select_id=47

澤田直『新・サルトル講義』(平凡社新書
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/458285141X/qid%3D1116912151/249-3021831-2553960

永井均『私・今・そして神』(講談社現代新書
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/flex-sign-in/ref=cm_rate_rev_pagepos1/249-3021831-2553960#rated-review

(2008年7月25日 Mixiから転載)