ピナ・バウシュの『バンドネオン』

バンドネオン』は、ピナ・バウシュにしては地味な作品なんだろう。地味めな作品にもそれなりの魅力があるというのがわからない人は、見る目がないんじゃないかな。

場末のダンスホールみたいなセットが組まれた舞台の上に、とてもシンプルに、いくつかの限られたモチーフを繰り返してゆく。結局、人生の偶然の積み重ねの上に、それぞれのダンサーがいる、ということと、男と女が向き合うパターンの反復に尽きているといってもいい。

女性ダンサーのスカートに男性ダンサーが手を差し入れて、おそらく股を支えにして持ち上げる。女性ダンサーが、けだるく、なまめかしく、男性の身体をよじのぼってゆく。男の顔に下腹をあてがうようにして、女が肩に跨る。そのパターンをそれぞれのカップルがゆっくりと繰り返してゆく。このシークエンスが作品の一つの中核をなしていて、女性を肩にのせたカップルの群れが一気に崩れて、床に座り込んだダンス(対面座位!)へと転換するというあたりに、男女のペアによるダンスが含意する性的なものを含意するがままに露出させるというみもふたもないこの作品のコンセプトがあるというわけだろう。

「Tiens!ワタシノジンセイコンナンデシタ!Voila!」ってかんじで、扉から一人一人ダンサーが出てきて、棒読み日本語でまくし立てていくってパートが、人生と追想といったモチーフを提示するところ。これが延々続くのにうんざりする人も居るだろう。
「Tiens!Voila!」のフランス語は翻訳不可能なんだろうなあ。「ねえ」とか「ほら」とか「さあ」とか「そういうこと」とか対応しそうな言葉を使っても、このニュアンスは出ない。おそらく、どの言語圏でもここんところはフランス語なんだろう。
他の部分で小出しに展開される、滅茶苦茶なダンス教師の再現コントみたいなものなども、ワタシの人生を左右したエピソードの提示、という風。

それぞれの人間は様々な個別の人生を歩んでいるけど、セクシュアルな関係となると、同じようなパターンを反復せざるを得ない、そのことの悲哀と愉悦、みたいなことがテーマだといってしまうと、ほんとにみもふたもない。

男女別にApplaudissement(拍手喝さいという意味。フランス語ならこの一言で描写できる印象だった)を繰り返す場面とか、いかにもタンツテアター様式で、あまり踊ら(せ)なかった時期のピナ・バウシュの作風全開である。

ランナーの妨害法の実演と、Applaudissementが繰り返されるところなど、ナンセンスコントに他ならない。

舞台奥から大げさなスキップみたいにこどもっぽく走り踊ってしまう場面もとても魅力的で、ああいう一見何気ない開放感を瑞々しく演出造形できるピナ・バウシュは本当にすごいとおもう。

問題は、そういった雑多なものが、作品にまとめあげられる仕方だ。この絶妙さは、ピナ・バウシュでしか実現できないものであって(成功・失敗は別にして)作品構成、その脈絡がないけど一貫しているような持続感にはなかなか批評のメスは届いていないのではないかとおもう。

二部構成なのだけど、一部の後半のかなりの時間、床のリノリウムを剥したり、壁の大きなパネル(モノクロの、レトロな写真のような画像)を撤去したりする作業を延々と見せているのがとても大胆だ。その間も、緩慢なパフォーマンスが続いてはいるのだが。いや、むしろ、このゆるやかにだらしなく進む時間を舞台の上に実現することにこそ、この作品の本質的なものがあるように思う。

二部は、もう、ぽつりぽつりとしか上演行為がなされない。上演行為の痕跡となる水溜りや椅子が置き去りにされて、あちらこちらに点在している。舞台の上ににじむような照明の美しさが際立つばかりである。

二部では、なぜか、舞台中央部だけ床がむき出しにされていて、何かが終ったあと、片付けられてしまった空間のあてどなさが漂っているのだけれど、そして、そこに人々が名残惜しむように繰り返し戻ってくる。

むき出された床のざらついた存在感が迫ってくる。舞台奥へと平らかに延びているはずの床面が、垂直に起立してくるかのような錯視が湧き上がってくる。上演行為は、むしろその空間の「がらんどうさ」を際立たせるために散在させられているのだと私は信じ始めていた。

もう、この作品がどのように始まって、どのように終ったのかも憶えていないのだけれど、この作品のゆるやかな時間の中で、舞台の空間に対面した、そのにぶい感触だけが、今も強く残っているのだった。

この公演を見ながら、私は、ピナ・バウシュに心酔する人の気持ちも、拒絶する人の気持ちも、わかるような気がしていた。

ところで、おそらく意味もわからずに声に出される日本語というのはどういうものなのだろうか。
外人ダンサーが音だけでおぼえた台詞もまた「超リアル日本語」であるには違いない。