「ホーム&アウェー」〜アメリカの短編を2つ〜中野成樹(POOL-5)とフランケンズ

7/21の夜に見に行った。
http://wonderland.tinyalice.net/cgi/mt/archives/0120matsumoto.php
にレビューが出ていて、ほぼ同意。

第一部
「楽しく小さな家族旅行(あるいはちょっとした夢の話)」
原作/T・Wilder『The Happy Journey to Trenton and Camden』

第二部
「ちょっとした夢の話(それはきっと旅先のルール)」
原作/W・Saroyan『Coming Through The Rye』

という構成。

客入れのときに、舞台の片隅にあるDJブースで流す曲の曲名を紙芝居式に掲示していて、舞台奥には「Now Playing」という文字が白抜きで書かれている。舞台は黒づくめで、ちょっとした枠みたいなものも立てられている。

そして、「Now Playing」という文字そのままに、演技がはじまり、ポップミュージックの曲名が掲示されている場所に、第一部のタイトルとシーンそれぞれにつけられたタイトルが掲示されてゆく。

ポップミュージックと演劇のシーンとを類比させようとする意図はなんだろうか。ポップミュージックのスタイルに対する演劇側からの憧れを示唆するんだろうか、ポップミュージックになぞらえることで、日本的な演劇のダサさから脱却したいという姿勢を見せているだろうか。まあ、そういう趣味的な面もあるのだろう。しかし、ここにはもっと本質的な作品そのもののモチーフがユーモラスに示されているような気もする。

ポップミュージックのある生活の様式とは、舞台となっている古き良き(?)アメリカ(50年代頃だろうか、ともかく、ヒッピーとかビートルズとかの前であろうアメリカ)と、現代日本に共通するものとしてある、ということだ。それは、戦後日本がどのようにアメリカ化されたのか、という背景を示唆するものにもなっている。

誤意訳&演出 中野成樹、ということ。中野氏がどこまで翻訳しているのかは原作も知らないし翻訳事情もしらないので良くわからない。だが、たとえば第一部で、ドライブ中に娘が流行歌を歌って「あなたにはまだ早いわね」と母親に言われる場面で、役者一同が楽器を手にして即席素人バンド風に生演奏しながらジッタリンジンの「プレゼント」*1を歌うなんてあたりが「誤意訳」ということになるのだろう。(バンドと家族の紐帯との類比っていうのも、いかにもかもしれないけれど、いかにもあっけらかんと提示されるのだった。)

「意訳」をするときには、日本にはない他国の文化的背景を、それに該当する日本の文化的背景に置き換える、というなぞらえの作業が行われるはずなのだけど、それを、明確に徹底して「意訳」であることを明示しながら行うというところに、中野成樹(POOL-5)とフランケンズの方法論のひとつがあるはずだ。

あるいは、家族以外の登場人物のセリフを、すべて録音して流したりする。スピーカーから流されるある種「映画の吹き替え」的なセリフの質感が、舞台には現れない人物と対話する演技をする若い日本の役者の姿と対照されることになる。

しかし、アメリカ映画を吹き替えや字幕で見るという経験は、現代日本の演劇が成立する場所を規定しているものでもあるはずだ。そこで、アメリカ的な「演技」が了解されている枠のありかたみたいなもの、それと同時に、アメリカと日本の落差、ないし、表象されることによって見えなくなるアメリカとの距離。これらの錯綜した日本とアメリカとの文化的な「距離」が、舞台を成り立たせるものとして結実しているように思う。

だから、何の曲か忘れてしまったけれど、カーラジオから流れる楽曲の歌詞のように画用紙に手書きされた「字幕」が次々に役者の手によって提示されるシーンの落ちが、「字幕:戸田奈津子」というギャグだったのも、単なる思い付きでは終わっていないのだ、と私は考えた。

そういう仕方で、状況そのものをリアリズム的に再現しないことが、様式化した演技の意味するもの、その意味する仕方の質感、を際立たせることになっている。そこに、造形された形態として定着された身振りが、ある種スタティックな生を得るような、演技の場所がある。

第一部のストーリーが展開され終わると、黒尽くめの舞台が解体されてゆく。そしてSTスポットの白い壁があらわにされてゆくのだけど、そこにはPlayListという文字と共に、舞台で演じられたシーンが曲名のように壁に丁寧にレタリングされたゴチック体で記されている。

演技と共に舞台は消え去って、そして文字だけがのこる。ポップミュージックのスタイルと、演劇のスタイルとの類比が完成されたところで、消え去るものと消え去らないものとのかかわりが舞台に提示されている。そこに、舞台に情景を描く演技と、描かれたものとしての人生との間の類比が浮かび上がってくる。型通りのものの型通りの生。

第一部が終わると、客はいったん外に出なくてはならない。再入場すると、舞台と客席の位置が反転していて、さっきまで舞台だったところに座らされる。壁には、第一部で壁に書かれていた文字が残っている。そして、第二部の、生まれる前の魂たちの対話劇が始まる。第一部の反響のような声が舞台奥の、普段は操作ブースになっている場所から聞こえてきたりもする。

原作は知らないのだけど、この第二部は、ある種予定説的な魂の概念を演劇化したような奇妙な戯曲になっている。なので、これから始まる人生が、すでに終わったものとして提示される、というお話だ。それぞれの魂は、生をまっとうするときの姿をしていて、事故で死んでしまう子供と、殺人犯の若者と、その恋人と、大学教授をしていた老人とが、人生の意味について語り合ったり、世界にあふれる不幸について語り合ったりする。そして、劇場の出口から外に「生まれ」てゆく。観客も、そこを通って出てゆかなければならない。

反転しあう第一部と第二部をおさめたSTスポットの空間が、ひとつのアレゴリーとして成立し、作品は終わる。

公演には
《家族というものがもっているなかなか崩壊しないものと生まれることについての概論》
というサブタイトルみたいなものがつけられていた。

小劇場に提示された演劇によるライプニッツ主義、なんて思う。

*1:あなたがわたしにくれたものってリフレインを繰り返すやつ