町並みと伝統

今日は書類を仕上げて郵送し、読書会を早めに切り上げてニブロールの服のブランドの個展を見にでかけた。

自由が丘に行ってきたのだが、町の雰囲気はそれなりに落ちついていて良い感じかなあ、などと思いながら通り過ぎる。自由が丘なんかに、めったに行かないのだ。でも、通ってる車とか、どうも高級なんだな。ちょっと縁がないかも。

帰り際、駅にそぞろ歩きながら、下北沢は安くてもうまい店があるし、高くてもうまいとは限らないけど、自由が丘は値段と味が比例している町だ、なんて聞いた。

それで、ピナ・バウシュの噂をしていたときに、埼玉芸術劇場までバイクで出掛けた知り合いが、埼玉の町並みや通りの名前のセンス悪さは不愉快だ、なんて言ってたのを思い出して話したりもした。

多分、東京は町の伝統が縦に積み重ねられないで、横に広がってしまう都市なのだろう。浅草、新宿、渋谷、池袋がひとつの界隈だったらどうなるか。
そして、麻布ディープラッツの辺りを歩いていると、東京タワーの足元ではあるのだけど、まるで郊外だ、と思う。山手線の内側に皇居と郊外を抱えている都市だ。

ところで、大田区と川崎は、全然雰囲気が違うそうで、例のバイク乗りの知り合いが言うには、境を越えると様子が一変するそうなのだ。多分、法人税とかの収入がそれぞれの自治体に差があったり、企業と文化と町並みの関連があったりするのだろうと思う。確かに川崎の美術館や市民館の企画は面白い。

鎌倉と京都は、どこか似ている。やはり、人が住み続けた事実は、その場所の空気を変える。

新宿文化センターから駅まで帰る道すがら、どこかの地方都市と変わらない町並みだなあ、と思う。戦後の復興という時代が要請した、均質性があるはずだ。では、これからのこの国のありかたは、どんな町並みを残すだろうか。

居心地の良い場所に住めたら良いなあと思いながら。住み続けることが何を残せるのか、と考える。

しかし、住むのに良い場所、過ごすのによい場所を求める気持ちは、着実に醸成されていて、それを「仕事」や「政治」の問題として、生きることを充実させるに欠かせない事柄として、身の回りに整えようという欲求の動きは、絶えず消えないはずではあるのだ。

(初出「些末事研究」/2010年3月12日再掲)