時々自動の最近の活動>RA3に向けて

時々自動は、昨年の作品「時々自動的思考」を発表した際に、第二期の活動を締めくくると宣言した。今年、2カ月ごとに連続して公開されている「6events」のシリーズ公演は、第三期の新しいステップに向けた予備的な活動として位置づけられている。いわば透明なさなぎの中で変態が遂行されるようすを観察できるような仕方で、観客は今までの活動の総括であると同時に構想でもあるような舞台を目にすることができた。あるいは、舞台において進化のプロセスをたどり直している時々自動の新たな胎動を目の当たりにしているのである。

第一期から第二期、そして第三期へと活動を自覚的に区切ること自体、常に新たな創作を可能にするためのシステムの構想である。例えばバンド活動などを例にとっても、同じサイクルでアルバム制作やツアーを展開しているうちに行き詰まるなんてことは良くあるだろう。劇団などでも、観客を固定化するような閉鎖的なサイクルを形成してしまうことがある。
そのような閉塞化を逃れつつ、集団として常に再活性化をめざしている時々自動の方向性は、ダンスや音楽を作るとき、その製作システムから発想してしまうような時々自動の「やり方」そのものだ。さて、システムを発想する、という仕方においては、作者の位置はどうなるだろうか?時々自動の「6events」このような問いに具体的に答えてくれているようだ。

「6events」を構成する作品群は、二つの系列に分類できる。一方に、レコーディング・エンジェル三部作がある。その第一作である「RA1」についてはここでも取り上げた。これは、過去の作品の記録を素材に、作品の断片や再現を再構成することで活動を振り返るというもの。通時的で、クロノロジカルな三部作だ。

もう一方に、コンサート、映像展、シーケンス上演会がある。小品を集めた公演になっている。シーケンスとは、習作的に作られている短いパフォーマンス作品だということだ。いわばこの系列は、音楽や、映像や、身体表現という時々自動の作品を構成する主要な要素を切り離して提示してみよう、というもの。といっても、純粋に還元された要素が示されたわけではない。映像的小品がパフォーマンスと共に上映されることもあれば、パフォーマンス的小品が映像と共に上演されることもあった。コンサートでも映像が使われたと言うことだが、見に行かなかったことを後悔している。

さて、これらの小品集的公演では、若手の作品が多数上映、上演された。むしろ中心を成していたといっても良いほどだ。時々自動の新しい展開を感じさせる。もっとも、それぞれの作品を取ってみると、様々に興味深くはあったが、それほど強く惹きつけられるものはあまりなかった。
しかし、それらの作品を見て行くことで、今まで「時々自動」のテイストとして認知していたものが、さまざまな個々のクリエイターの産物であったことが、その寄与があったことが見えてきた。
結論を言ってしまうと、朝比奈尚之という演出家がいなければ時々自動ではないが、演出家だけでも、時々自動にはならない、という事が良く分かった。

たとえば、「映像展」に出品された朝比奈さんの映像作品は、必ずしも「時々自動」風ではなかった。二つのモニターを使ったモノクロ画像の作品で、カップルの間で良くある出来事を二つのアングルから撮り、平行的に構成したものだったが、映像の質感や編集の感覚は、時々自動のこれまでの作品であまり見たことのないものだった。

時々自動の公演ではないが、2000年6月に開かれたKuuKaiという男声合唱団の公演では、「TVM」という朝比奈さんの作品が初演された。これは、合唱団からの委嘱によって作られた作品で、舞台に投影されるTV画像やビデオ作品にあわせてコラージュ的、ゲーム的な集団ボイスパフォーマンスが繰り広げられるというもの。標識的図形のイメージを音声に変換するというアイデアは前作「時々自動的思考」にもあったし、様々な要素は、基本的に時々自動の作品に取り入れられてもおかしくないものだった。それでもやはり、何かが決定的に違う。
違いのひとつは、パフォーマーが構成する集団の成り立ち方だろう。あくまで、コンサートのなかの一曲として朝比奈作品を披露する合唱団と、演出家も含め、様々な概念や偶然を共有して活動する芸術家集団。この点については詳述するまでもあるまい。(100人パフォーマーという、ワークショップを受けたパフォーマーをその公演限りで使うという試みもあったけれど、そこでもこの対比はやっぱり成り立っていると思う。)
さて、TVMで団員の画像が用いられる場面では、観客の反応も含めて、内輪受け的な雰囲気になってしまっていた。これは、アマチュア合唱団ゆえに、観客の多くが出演者の知人や家族であったことにも原因があることかもしれない。しかし、観客の構成や配置も作品の要素だとすれば、ここにもまた、時々自動という運動にあって、合唱団の公演には無い何か、があったはずなのだ。

今回のシリーズでは毎回公演後、アフタートークが成されているが、時々自動を見に来ていたkuukaiの団員の人が発言することもあった。こういう種類の舞台芸術は初めてで驚いた、と言ったことを語っていた。このような仕方で新しい観客に開かれていることも、時々自動というプロジェクトの可能性を示していたように思う。

こうして考えてみると、さまざまな作り手と、さまざまな観客も含めた、時々自動というプロジェクト自体がまるで、ひとつの画期的な作品であるかのように思えてくる。

3

レコーディング・エンジェル三部作は、旧作の再構成、再上演を織り込みつつ、今までの時々自動の活動記録を素材にして作られている。第一作目は、時々自動の初期の活動を取り上げていたが、今回の「RA2」はそれに引き続く時期を扱っている。80年代後半の時期、時々自動の活動歴で言うと第一期の後半にあたる。
「RA2」で、主に再構成の素材として取り上げられた「ウミカラアガッタ」という作品は短いシーンの反復によって成り立っている作品だったらしい。その事自体、作中にメンバー同士が回想を語り合うというシーンがあって、そこで言及されていた。
繰り返されるシーンは、社会や文明が壊滅してしまった世界の生き残りが、荒廃した東京で何らかの組織的活動をしているらしい場面であったり、異様なモンスターの襲撃に立ち向かう絶望的な戦いの描写であったりする。テーマとしては、いかにも80年代的な終末感覚を思い起こさせるものだ。

今回の「RA2」における再構成でも断片的なシーンが様々な仕方で繰り返されたが、反復の効果を再現することは、今回の目的では無かったのだろう。「RA1」では、過去の舞台の映像記録が上映されると同時に、同じ場面を別の演出で上演してみせるという仕掛けがあったのだが、「RA2」では、そのような背中合わせ、あるいは鏡合わせ、の構造は無かった。いわば、過去の作品は引用の素材であり、言及の対象であるに留まっていた。そのせいか、再構成の場面については、過去の作品の紹介や時々自動の手法の紹介という以上の興味をあまり感じなかった。 音楽や映像は新しく作られたものであったり、ないしは作りなおされたものだったようだ。アフタートークでの説明によると、該当する時期の活動をめぐる映像などの資料や記録があまり残されていなかったという事実もあったらしい。その分、素材となる「記録」が限られていただけに、作品も制限されていたと言えるかもしれない。

しかし、「記憶」の活用という面では、「RA2」では「RA1」では用いられなかった興味深い手法が用いられていた。メンバー同士が回想を語り合うシーンは、引用された「ウミカラアガッタ」の上演当時の様子を知っている元々のメンバーが語り合っているという設定なのだが、それぞれのメンバーの役を、最近参加した若いメンバーが演じるという仕方で舞台化されていたのだ。
演じると言っても、演者達は舞台上でテーブルに着いていて、実際に食事をしながらのもの。ざっくばらんに話しているという風だ。台本通りのセリフを口にしているとは思えない即興性が感じられるが、会話の内容は過去の「時々自動」の事実に関するもので、若いメンバーが知っているはずもないと思われるディテールに満ちている。なかなか奇妙で、込み入った仕掛けに満ちた場面だ。
実際は、この場面は次のように構成された。まず、実際に元々のメンバーが集まって交わされた昔話がテープにおさめられた。次に、その内容をピックアップしたテクストが作成された。更に、そのテクストを元に、元々のメンバーの役を割り振られた新メンバーが会話の内容を覚えた上で、それを思い出しながら、自分の言葉として、自分の口調で舞台上でおしゃべりをする。これは、アフタートークの場で確かめた事で、作品において明示されてはいないし、パンフレットなどでの説明も無かった。ただし、作品を見ているだけで十分に推測できることでもある。

この場面で、食事をしながら会話するそれぞれの仕草や言葉を切るタイミングは指定されていない。別の人の記憶を再現しているという面では演技であるが、あるキャラクターの口調や仕草を造形し、新たに作り上げているわけでは無いので、狭い意味で言えば演技とも言い切れないようなものだ。食べる事自体は、全く実際の行為であり、演技ではない。
このように説明すれば、この場面が様々な策略に満ちた複雑なものであることがお分かり頂けると思う。現実の出来事に取材すること、それをテクストとして構成する水準の作劇法、上演テクストと上演との関わり、テクストを演技に立ち上げる仕方、演技と行為との相関関係、など、など、など。「演劇」に関するあらゆる問題がここに含み込まれていると言うことさえできる。
それぞれに検討する甲斐のある問題点を指摘できるわけだが、ここで何より面白いのは、互いに舞台を巡る現場で顔を合わせている演者同士が、「演ずる」ことと「演じられる」ことを通じてある種の関係を結ばざるを得ないと言う点だ。

ハンナ・アレントはその著「人間の条件」において、ドラマという語の語源であるギリシャ語について触れながら、「演劇だけが、人間生活の政治的分野を芸術に写すことができる」と論じている。その理由は、アレントに従えば、演劇の主体(主題)は「他人とさまざまな関係を取り結ぶ人間」だけなのであり、物語に現れる主人公の意味が明らかになるのは、それが演じられるとき、つまり行為が模倣されるときに他ならないからだ。*1
ここで、アレントが「政治」という言葉に含み込ませた独特の思想について留意すべきところだが、今は演劇的な行為装置が舞台においてどのように機能し得るかに関心を絞ろう。自分が関わっているプロジェクトが継続されてきた記憶について、それを自ら想起し演じること。自分の知っている人の役を演じることにおいて、その人が現場という装置において発揮していた作用を再検証すること。あるいは、それを見届けること。これらの舞台作業は、思い出や知識や、身体的に記憶された技量の多様な複合からなるパフォーマー同士の集合的な相互作用に他ならない上演と創作のプロセスとして、「時々自動」というプロジェクトを、それぞれのパフォーマーが互いに換骨奪「胎」することだったとも言えるだろう。

この場面にとても興味を持ったので、アフタートークの際、互いに演じ、演じられた新旧のメンバーにこの場面の感想をたずねてみた。話をまとめると、件の場面はどうやら、演出家の意図を越えて、パフォーマー間相互の認識や関係を活性化する装置として機能していたようだ。
なかには、ある種の演劇ワークショップやサイコドラマなどに似た様な働きを見出せる以上このような手法自体は斬新というわけでも無い、と思う人も居るかもしれない。問題は、手法を作品の中で活用する仕方である。少なくとも、例の場面はそれぞれのパフォーマー個人の心理的問題を解決するために作用していたのではなく、作品の構築と構想に向かって開かれていたということは確認しておきたい。作品構成のもっと詳細な検討があってしかるべき所だが、それはまたの機会に譲って、とりあえずの概括をしておきたい。

ここで演出家が行ったことは、ひとつのシステムを構成することである。必ずしも、何か明らかな効果が前もって目指されていたのではない。演出家は、何かある事の遂行を指示する指令装置としてというよりはむしろ、システムを安定的に、時には過剰に、作動させるためのある種のフィードバック装置として作動しつつあったかのようだ。あるいは、多様な環流システムのひとつとして、演出家自身も自ら「器用」に作り上げたシステムの中で作動しつつ変容せざるを得なかったのではないか。
この、「時々自動」という上演、創作システムが、観客の側をどのように作動させていたのかの検討は、ここではまだ尽くされてはいないが、それは時々自動の新たな可能性が、またしても未知数であることと同様である。

つまり、それは、「劇場に足を運ぶ喜び」の中に探さなければならないものなのだ。

(初出「今日の注釈」/2010年3月14日改稿の上再掲)

*1:ちくま学芸文庫 p.303-p.304