l'artiste とは誰か? ベルクソンの一節をめぐる断章

ある掲示板でダンスについて話しているとき、ベルクソンの著作「時間と自由」第一章において「優美さ」について論じている箇所で言及されている「芸人」とは、原典ではどのような単語なのか、と質問を受けた。当の対話の相手は、僕がベルクソンを研究していることを知っていたのだ。
哲学の学生だと言うと、何をしているのか、と質問されることが多いので、普段研究でどんな事をしているのか書いてみるのも一興だろう。

ベルクソンはフランスの哲学者で、19世紀中頃に生まれ、二次大戦中、ドイツ占領下のパリで亡くなった人だ。「時間と自由」はベルクソンの博士論文であり、第一の主著と目されている。画期的な時間論であり、自由や創造性が語りがたい所以を解きあかそうとしている。時間は空間的、言語的には捉えられない、と論じている書物であり、むしろ特異な空間論、言語論を展開した書物として理解した方が良いかもしれない。時間の捉えがたさは自由の捉えがたさでもある。その理由は、我々の認識が空間をモデルとして成り立っているからだ、というのが結論だ。

「時間と自由」の第一章は、様々な感覚の強さとは、質的変化に他ならないもので、数量的に表すことはできないと論じている。数量的認識は空間的なもの、と規定されていって、感覚の質的変化の理由が時間固有の水準にある持続と結びつけられ、自由の本質もそこに見出されるのだが、そこらへんは実際にこの本を読んで納得して頂きたい。

さて、その文脈で、ベルクソンは、さまざまな感覚や情動について分析を加えている。そのなかに、美的な情感のうちで最も単純なものとして「優美さ」(grace)を取り上げた一節がある。
(フランス語のgraceには、本来アクセント記号が必要だ。アスキーコードの英語中心主義が弊害となって、日本語Web環境で仏文のアクセント記号を表示するのはちょっと難しいのだ。アクセント記号を抜かすと英単語と同じになる。)

さて、その一節では、優美さは、外的運動の容易さ、自在さの知覚であり、ぎくしゃくした線よりは曲線のほうが優美だ、とされている。動きのゆとりに、先の動きを予想させるものがある。そこに動きの優美さが見出される、というのである。更に続けてベルクソンはこう論ずる。「優美な運動がリズムにのり、音楽がそれにともなうとき・・・リズムと拍子とのおかげで、さらにいっそうよく芸人の動きが予見できるようになる。」予測できることが優美さの印象を高め、そして観客にはあたかも自分自身が動いているような印象さえもたらされるのだ。
引用したのは白水社版、平井啓之訳の文章だ。件の質問者が問題にしたのはこの「芸人」である。この、芸人と訳出された登場人物は一体どのような芸術を披露しているのだろうか?

ベルクソンが書いた元の文章では、芸人と訳された言葉は artiste だった。芸術家という訳がすぐに浮かびそうだ。artiste が芸人と訳された理由は、どこにあるのだろうか。フランス語の辞書「petit Robert」を引いてみる。
日本で言えば広辞苑にあたるのだろうか。広辞苑と違って、百科は別巻になっている。その分、各語の解説が充実している印象だ。語源や語義の変化なども一通り解説してあって便利なのだ。プチロベールを引いていると、広辞苑がなんとも物足りなく思えてくる。新刊で買うと一万円ほどするが、僕は800円で入手した。ベルクソン研究の仲間が、神田古書店街にある田村書店の二階、洋書コーナーの入り口そばに平積みしているところで安く売ってたりすると言っていたので、後日立ち寄った際に見てみたら、彼が言った通り、雑然と積み上げられた本の上に鎮座していたのだ。あんまり話通りだったのでウソみたいで驚いたものだ。
それは1967年の版で、古いから要らない、というわけなのだろう。昔の哲学者を主に研究する僕には古い版で差し支えない。この辞書は早稲田大学のとある研究室から廃棄処分になったものだった。春先には、そんな風な本が放出されるらしい。ねらいめの季節なのだ。

artiste 、あえてカタカナ化すればアルティストといった風に読む。ルを読むのに舌を下に付けたままにすれば、もう少し正確になるだろうか。art という言葉自体が、そもそも技術というような意味だったことに留意すれば当然予想できる事だが、古い意味では、artiste は難しい技術を修得した人、というような意味だったらしい。美術、芸術の作家という意味あいを持つのは18世紀のこと。この意味で最初に使われたのが確認されるのは1752年だと書いてある。こういう数字を割り出す緻密な文献考証は骨の折れる作業なんだろうな。その積み重ねが学問の基礎を固めている。
さて、他にも幾つかの意味あいが載っているので、視線を下ろしてゆくと、音楽ないし舞台の作品を上演、演奏する人、という意味が載っている。artiste という語には、芸術家、というのとは別の、出演者という様な意味もあったのだ。岩波文庫版、服部紀訳では、演技者と訳されていたのだが、おそらく芸人と言うよりは演技者と言ったほうが妥当な訳だろう。芸術家と訳したら幾分誤解を招く不正確な訳だ、という事になる。
この場合、芸術家よりは芸人のほうが正確、と言えるかどうか、ちょっとわからない。芸人、という言葉が近頃のお笑い芸人に直結してしまう事を考えれば、現在は避けた方が良い訳語だろう。平井氏は芸人という言葉でどんな芸人をイメージしたのだろうか。

ポップスやロックについてアーティストと言う場合も、この意味だ、という事になるのだろうか。と思って英語の辞書を引くと英語ではartistとartisteは別の単語としてあつかわれていたのだった。artist は芸術家、artiste は平井氏風に言えば芸人だということになる。わかっているつもりの単語はいちいち引いたりしないから仕方ないが、恥ずかしながら、今回初めてこの区別を知った。
フランス語では同じ単語の別の意味として扱われている語が、英語では別の綴りで定着しているわけだ。推測するに、イギリス経由でより古い時代に流入した芸術家という意味のartiste が英語化してartistという綴りになったのに対し、英単語としてのartiste の方はまだ外来語としての日が浅く、フランス語の名残を、発音しないeの文字に残しているという事だろう。アルファベットの世界では異言語間での単語の流動性が高いし、外来語の徴も溶けていってしまう。
アメリカではフランス語が気取って使われたりするそうだから、そんな事情が絡んでいるかもしれない。あくまで推測の域を出ないが、アメリカのフレンチ気取りが日本のアメリカ気取りに姿を変えてアーティスト、という言葉で流通しているのかもしれない、と思うと面白い。

仏仏辞書のロベールに目を戻すと、出演者、というほどの意味の artiste について、類義語として参照すべき語に指定されている語にMusicien, Acteur, Comedien・・・ とある。ミュージシャン、アクター、コメディアン、とカタカナ化すると、また誤解の元だ。コメディアン、といってもフランス語では役者、というくらいの意味でも使われるようだ。しかし、Comedien の類義語には、Acteur, artiste, mime. とある。Mime 、カタカナ化すればマイムだ。
Mime の項目を見ると、 新しい意味ではパントマイムを演じる人、という意味なのだが、ふるい意味ではダンスやものまねなどを含んだ一種の短い喜劇を意味し、それを演じる人という意味にも広がった、とある。もちろん、19世紀末にベルクソンが記したartiste と、それよりもっと古いであろうmime の意味あいを直接結びつけるのは短絡である。しかし、なんらかの関連が、その間に地下水脈のような仕方で結ばれていると想像することは、許されるだろう。役者は身振りが達者な人でもあるわけだ。ダンスにも通じるような修練された身体の美質が芸の見事さとして観客を惹きつけるのだ。

以前は、文脈から言って、音楽とあわせて披露される優美な運動とはダンスのことに他ならないと僕は思っていた。おそらく社交ダンスのようなものではないか、と想像していた。若いベルクソンが過ごした時代は、ボヴァリー夫人の時代とそう隔たってはいない。しかし、喜劇役者の軽業が音楽と共に披露されたとき、それが優美であると言える場合もあるかもしれない。例えばコメディア・デラルテ。昨年来日したミラノ・ピッコロ座の舞台でアルレッキーノを演じたフェルッチョ・ソレーリの名演技を優美と形容することは許されるだろうか。

ともかく、ベルクソンが想定していた出演者がどんな人物なのか、時代考証を突き詰めれば何らかの限定は可能だろうが、いずれにせよ想像の域を出ないだろう。おそらく、なんらかのダンスであると考えて間違いはない。そうだとしても、モリエールの「町人貴族」でダンス教師は挨拶の仕方も教えていた事を忘れてはならないだろう。単純にダンスを様式化した社交的所作から切り離して考えるわけには行かないのだ。ベルクソンが語る優美さとは、ダンスにしろ、なんらかの所作にせよ、おそらく社交的な場に位置付いて発揮された魅力と考えるべきかもしれない。そして、それをダンスや喜劇の軽業などの言葉に限定する必要もなく、身体運動がある場面で発揮する魅力の一様式を叙述し、分析した言葉としてベルクソンの文章を読めば良いのだろう。それがどのような場面として成立したものなのかを演者の身体運動の魅力を分析する時に、観客側の身体の反応に注意するベルクソンはさすがに慧眼だと言うべきだろうか。

ベルクソンの著作「笑い」の岩波文庫版で「ベルクソンの議論ではラブレー的笑いが扱われていない」と解説した林達夫先生に、喜劇役者の軽業は優美なんて大人しいものでは無いでしょう、なんて言われそうなので、このあたりで筆を置くことにしよう。

(初出「今日の注釈」/2010年3月14日改稿の上再掲)

(追記)なお、上の記事に対して当時運営していた掲示板に次のような反応をいただいていた。あわせて転載し、記録しておく。

DM 00/09/14 Thu 01:35:55
武藤です。
英語で artist と artiste があるというのはぼくも知りませんでした。リーダーズによると後者は料理人などの“自称”というケースがあるみたいなんで、おそらくフレンチコンプレックスの一種なんでしょう。その辺たしかに日本語の“アーチスト”と似ています。大文字の「芸術」の終焉がいわれる一方で、“芸能人”が“アーチスト”と名乗るようになるなど、「芸術」の概念の方はますます神話的に強化されて一向に死ぬ気配がない、という滑稽・不気味な現象ですね。
「優美」(grace)というのは単なる日常語としてだけでなく、美学史上では一つの美的範疇概念として定着しています。マニエリスムの蛇状曲線が元ネタといわれていて、これを理論化したのがホガース。さらにドイツ観念論にも流れていっているようです。佐々木健一『美学辞典』(東大出版会)には奇しくも、「近代において優美が動物や人間の運動の美と見られることが多かったのは、ホガースの影響と考えられる」(p.158)とありますから、まとまった美学的著作のないベルクソンも、この辺の認識は共有していたというわけでしょう。
やはりここでは「現在の中に未来を保つ快感」というあたりが自由論としてのポイントだろうと思いますが、さて「大野一雄の自由さ」と関連付けた議論は・・・?