フランケンズ『スピードの中身』

次の公演を公園に見に行った。

中野成樹+フランケンズ2010新作公演
『スピードの中身』
2010年3月20日(土)〜3月21日(日・祝)
会場 所沢航空発祥記念館
PR・解説 堅苦しいイメージの海外戯曲を、原作に敬意を払いつつ、今の我々の物語に仕上げる『誤意訳』なる手法で注目を集める中野成樹。今回はブレヒトの教育劇に挑みます。誤意訳は若手注目作家の石神夏希に任せ、中野は演出に専念します。
さらに、新メンバー加入後初の本公演!上演場所はなんと飛行機の博物館!!ナカフラを知ってる人も知らない人も楽しめる公演となっております。
http://www.theaterguide.co.jp/search_result/paid/detail.php?id=15592

公演が始まる前に、会場がある航空記念公園をひとまわり見て回った。予約したら、早めに行ってピクニックとかしたらいいよって書いてあったので、春めいた一日公園を見て回ってみようと思った。冒険遊び場には親子連れがあふれていて、その辺の土手で男の子たちが坂を転がる遊びをしていたりして、散歩中の犬が紐に引きずられていたりとか、ピースフル。
所沢航空記念公園 公式ホームページ

日本で初めての、飛行機事故で亡くなった人の碑があった。大正時代に陸軍で初めて飛行機を飛ばしてた頃に、強風に煽られて死んじゃった人たちが、これから軍備を拡張するぞって勢いで顕彰されてた、銅像込みの石碑の類が、墜落地点から移転に移転を重ねて、陸軍の航空部隊にゆかりのあるこの公園に最後は落ち着いたということらしく、そういうものものしい歴史にふさわしからぬファンシーな白塗りの鉄の門がついているのがなんだかいきさつはよくわからないが戦後的風景だった。

そして博物館を見て回った。自衛隊で使われていたヘリコプターや訓練機だとか、展示してある、でっかいかまぼこみたいな形の、なにかテントのようながらんとした建物。博物館の閉館のあと、開演という流れで、あらかじめ博物館に入場していないといけないのだった。飛行機事故で死んじゃう飛行士の話だから、いろいろと航空機の歴史の実際の遺物と、物語内容とが重なり合う演出で、入場券も飛行機に搭乗するときの手荷物とかのタグを模したものになっていて、航空会社みたく「NKF」の三文字が赤くあしらわれていた。この博物館の案内スタッフもフライトアテンダント風の衣装だったしね。

http://tam-web.jsf.or.jp/contx/

舞台スペースは、そんな展示されている航空機の類が背景に見えるような場所に仮設の会議場がしつらえられている風で、テーブルが横に並べられていて、それを半楕円形に客席が取り囲んでいた。博物館の大きな窓からは、だんだんと日が暮れていく公園と、その向こうの所沢の空が見えている。

客入れ中に、最後の調整と言って、リハーサルが演じられていたりする。博物館の入り口にいったん集合させられた観客が会場に案内されるときに、スタッフから「俳優たちが最後の調整をしてますがご容赦ください」とか言っている。演出家があれこれ俳優にダメだししていたりする小声のリハーサルが、いかにも差し迫った本番に間に合わせようとあせっている現場風であって、それがこの後に見るはずの本番をあらかじめ抜粋して示してしまっている。その内容が、差し迫った会議の本番前にあわてて準備をしているという内容である。

というか、そういうところが「ブレヒト的ですよね」ってそのあとのいかにも芝居がかった開演のあいさつのところで俳優によってコメントされたりする。

まあだから、再演されるかもしれないこの作品についてこれから思い出す限り内容を記述するのだけど、それを「ネタバレ」とか言うのは、お門違いもはなはだしいというわけで。

フランケンズでは、海外戯曲をあえて裏切ることによって逆に忠実であろうとするみたいな翻案の仕方を「誤意訳」と読んでいるわけだけど、石神夏希による誤意訳がブレヒトの原作を改変した脚本として仕上げられて、それを中野さんがさらに多少手直しして上演台本になったということらしい。

ところで、原作になっているブレヒトの教育劇というのは、そもそもは上演を目的にしたものではなくて、労働者のサークルとかでお互いに演じてみたりして、何か問題について考えてみるきっかけを与えるようなそういう目的で書かれた寸劇みたいなもので、当然、マルクス主義的な前衛党による革命を目指して、人類が明るい未来を実現するために人々を教育するんだって意図で書かれているものだった。

それを現代風の上演作品に改変するにあたって、石神夏希さんは、航空会社の事件処理会議みたいな場面を設定してみせたって感じだ。飛行士とか整備士とか、負け組っぽい現場スタッフと、勝ち組っぽい経営とかマネジメントとかやってる人たちが二手に分かれて、テーブルについて会議を進行するって形で話が進んでいく。

会議の内容は、大西洋横断を試みて事故死しちゃった飛行士を助けるべきだったのかどうか話し合うというもので、それを事故した飛行士が出てきて話したりするあたりがどう考えても現代劇じゃないわけだけど、会議の雰囲気としては、タイトな時間のなかで結論をださなきゃいけない企業の会議劇みたいな感じになっている。

仕切りなれたマネージャーっぽい女性とか、お追従が上手なスタッフとか、プロデューサー的に力もってるえらいおじさん風の登場人物とか、いちいち、それっぽい。会議では怒鳴って見せて、休憩時間に「君の気持ちもわかるよ」とか懐柔してみせたりするような上司ぶりとかもありそうな風だ。

その手の、会議風景は、多少コミカルに若干誇張されながら、まあわりとお芝居として演じられている感じ。軽妙なスタイル。

大きなポストイットで会議の進行とか要約とか示されたりとか、整備士役のひとがいかにも会社の社員章パスのプラスチックカードみたいに首からぶらさげてるのがツタヤのTカードだったりするあたりの諧謔もポップだ。

会議にはチロルチョコレートの準備が必須だとかあわてたあげく結局チョコは使わなかったね、みたいな小ネタの落ちとか、小道具的にも、身近さを感じさせながら、みんな消費社会の中に居るよねって確認にもなっている*1

飛行機事故の統計だとか、パンの値段とか飢えている人々の統計だとかが示されて、飛行士をひとり救うことに大金を投じても、それがどれだけ社会にとって有益でしょうか?みたいに強引に問われて、人類規模の観点から「それって必要なんですか?」みたいに疑問に投げ入れられていく感じは、まるで「一番であることに意味があるんですか?」みたいにざっくり問い詰めて問題を切り捨てていく、なんとなくぱっとみはそれが効率良い風な様子を見せびらかせてみせる「仕分け」会場のやりとりみたいだ。

会議にはゴールが必要ね、それを忘れないためにキャラクターを作ってみましたとか言ってマネージャー風の女性が「ゴールくん」って名前のぬいぐるみを置いたりする。ゆるキャラとか言って感情労働を煽るような仕方で創造性が搾取される当世の生きかたを風刺してるみたいな、「クリエイティブ」な人たちを俗物として誇張する、どこかキッチュでもある描写は露悪的だった、

飛行士が、僕は空を飛びたいんです、それしか僕たちには無いんだ、それを認めてほしい、みたいに言うのは、まるで僕たちは演劇をやりたいんだ、って言っている姿みたいな感じでもあって、飛行士や整備士たちが、社会的に成功してる風な人たちに引け目を感じながら最後には飛行士を助けなくて良いと言う結論に説得されていく感じっていうのは、まるで社会から「演劇?何の役に立つんですか?」といわれてる役者さんたちの等身大の姿って感じでもあった。

だから、前半の会議がおわってさっそうと勝ち組の皆さんが退場したところで整備士役の俳優のセリフが「あの人たちのクリエイティビティ半端ねえな!」だったあたりは皮肉もマックスで大笑いだった。

そんな、できそうな人たちと、見下される人たちの対比には、「二極化」みたいな話も絡んでいるんだろう。そういう身近ででも切実なお話と、実際に世界では飢えているひとがいっぱいいるのに、演劇とかやってる場合なの?みたいな、常にそこにある問題が重ねあわされているってところで、やっぱりこれは、社会問題を考える教育的な劇ではあったのかなと思う。

それを単純に解釈すれば、いろいろ切羽詰まった状況で、力も足りないし余裕も無いけど、でも、難問を難問としてきちんと真正面から引き受けることはできないのか?みたいな問いを問いとして舞台に造形してみせたものだったのだと思う。

あなたはもう死んでいいといわれて飛行士は拒否するんだけど、会議中、他のスタッフが、あなたはもう死んでいいよ、といわれてはい死にますといって死んじゃうという展開もある。喜劇的な軽妙さが不条理に示されるってあたりも、まあ、20世紀の演劇で良くある手法だったとは言えて、そんな仕方で、性急な「仕分け」的で、新自由主義にサバイブしましょう的なドライさが風刺されているといったところ。それで途中うつぶせて死んだままになってた人があっさり会議終わったら生き返ってくる終幕だとか、死ぬことも仕事することも一緒みたいな感じで、それはそれで月並みな手法だとしても描かれていることは考えていくとなかなか厳しく生権力とかって言葉で語られるような生き死にもすべて数値的に管理されていて市場化されてもいるみたいな行政と市場がのっぺり現実をおおい尽くしてるみたいな現在的な問題に触れている舞台形象として解釈できることだったと思う。

それが、後半、飛行機事故が恋愛遍歴に、生き死にが恋愛の成就になぞらえられて、前半の会議をパロディにしたみたいな展開になる。これは、人類はそもそも利己的な存在でしかないのではないか?とか、そうした見方を押し付けてきて、生き残るためにどうする?みたいに強迫してくる社会のあり方ってどうなの?みたいなわりとまじめな問いを中心に舞台が展開していて、飛行士の高く飛びたいみたいなロマンティシズムと人類の未来みたいなわりと壮大な話がドラマ的な図式をなしてた前半が、彼女にフラれたらそれが同僚と結婚するってことで、そんな話聞いてもあきらめきれないよってうじうじする飛行士はすっぱりあきらめるべきかみたいな議題になっているので、前半でわりと深刻な問いに直面した観客は肩透かしをくらうみたいだった。
最後は、新しい女の子が好意を寄せてくれてるみたいなんだけど、一線越えちゃっていいかどうかは、コイントスで決めるという終幕。このコイントスっていうのが、前半では「結論はコイントスで決めてもいいんだぜ、どうするんだよお前らぐじぐじしてる場合じゃ無いんだ!」ってプロデューサー的に権力とかお金とか握ってるおじさんが負け組みの人たちを恫喝する道具になってたので、この終幕をどう考えるかってそれはそれであれこれ解釈のし甲斐のあるディテールではある*2

こういう前半と後半の対比が、世界とか人類とかの大問題と、恋愛みたいな卑近なことを短絡するっていうのは、それこそセカイ系的なフィクションでは良くある話で、でもそういう仕方でこそ示される今の条件っていうものはあるんだろう。

世界大の問題と卑近な人生の悩みや選択が、でもショートカットされちゃうこと、そこで何か肩透かしをあうように感じてしまう感受性のあり方そのもの、そこでそれぞれの問題を問題として重く感じたり軽く感じたりしてしまうようなものの見方自体、フィクションなんじゃないの?だって、生きかたを考える上で、恋愛感情とか、大事にしたいものだし、そういう気持ちをないがしろにするような社会には住みたくないじゃないか?でもそれってほんとのところどこまで大事なものなんだろう?みたいなぐるぐるめぐる問いのなかに、世界大の問題と卑近で切実な問題をもう一度据えなおすことで、前半のアポリアは、更に難問としての度を増しているようでもあるし、難問を前にして思い悩んでみせることも何の役にも立たない自己憐憫的な所作でもあって、どんな難問にだって、身近なことのように向き合うのが難問への正しい向き合い方なんじゃないか、とか、そんなことを後半の展開から考えたっていいので、とりあえず僕は、世界大の問題を冷静に考えることは、問題を重荷みたいに押し付けることとは違うし、脅迫みたいに性急な決断を不可避なこととして大げさに示すことと、予測不可能な未来に怖気ずに進んで行く事は、どっちも常にこんぐらかりながらも別のことだよねって言えるそういう視点を示してくれる舞台造形だったんじゃないかって思った。

会場が劇場じゃなかったので、残響がすごくて、大声出すと2,3秒待たないと静まらない感じだった。劇場という場所がどれだけ環境を整えられているかを逆に実感させられるのだけど、セリフが響き続ける空間が歴史を蔵した場所でもあって、その残響の物質的な条件が、どこかで歴史とつながる感じが、見ていてとても忘れがたい感慨をのこす舞台造形だったなと思う。

ところで中野さんはブログにこんなこと書いていて、あっさりと大胆に大事なことを言っている。わりと努力した価値が相応に認めてもらえそうな「身体の現前する強さ」みたいな場所には安住してないわけだ。これはそれこそ挑発的で、この考え方についていけない観客とかも多いだろうけど、軽妙な風をしてかなりチャレンジングだと思う。

今回は久々に(?)スカッと了解できる作品を
創れた気がしていて、三渓園の初日前に
「最高傑作が創れたと思う!」と宣言したほど。
役者は座り芝居が多くてストレスたまるみたいで
「……はあ……そうっすか……」って感じでしたが(笑)

まあ今回は確かに
身体を無視して言葉のロジックだけ、の芝居だったから、
それを「最高傑作!」とか言われてもねえっ、て話か。
でも、個人的には「いま、身体を無視してやったぜ!」って気持ちで、
そこがなんだろう、もう無茶苦茶に好きだ。
身体身体うるせーから、昨今。ってほどでもないかもだけど。
でもきっと身体、無視していくだろうな、今後も。
http://frankens.jugem.jp/?eid=1594

あと語意訳担当の石神さんはこんなこと書いてた。

ブレヒトの原作を読んだとき思ったのは、「悲壮な覚悟でボケつづける道化のようだ」ということで
それはまさに「ツッコませる」(批評させる)ということなのだけれど、
誤意訳というのも、「誤」と断っている以上、ある種の「ボケ」だと、私は思っています。
だから「ブレヒト」を「誤意訳」するのは、ボケにツッコむんだけど、そのツッコミもまたボケている、
という状況に似ていると思います。
だから、ブレヒトをやっているというより、どこまでも誤ブレヒトをやっているということにしかならない。
だけど誤ブレヒトであること自体が、すごくブレヒト的なんだと思う。

その「ボケ」は、ものすごく真摯で本気な「ボケ」なんだけれど。
というか、どんな「本気」もそんな風にしか、他人を当事者には出来ないのかもしれないな。
誤ブレヒト/スピードの中身・その2 - ペピンブログ

*1:そういえば、飛行機事故と風というイメージが、世の中の空気の向きみたいな話と重ねあわされていたのも、世相という面からは興味深いポイントだったかもしれない

*2:たとえば、熟慮の上での決定にこだわるよりも、偶然にまかせるような一見したところの浅はかさに身を投げ出すことに逆に自由があるのかもしれないみたいな話をあれこれ考え込んでみる余地はいくらでもある