チェルフィッチュ『私たちは無傷な別人であるのか』についての私見

3月22日、演劇サイトPULL(http://pull-top.jp/)でのライブトーク*1チェルフィッチュ『私たちは無傷な別人であるのか』を取り上げる予定なのだけど、その前に自分の今の時点の感想を簡単にまとめておきたい。

主な登場人物

『私たちは無傷な別人であるのか』の主要な登場人物は、新築タワーマンションに引っ越す予定の、わりと富裕な層に属するといえる子どものいない若い夫婦、そしてその夫婦の家に遊びに行く妻の同僚の女子社員の三人で、そこに周縁的にあらわれる人物たちが何人かいて、その中で役者との対応が与えられる人物が二人いる。ひとりは、建築中のマンションの様子を見に行った夫がバスに乗るときに列に並んでいた男で、この男に夫は無性に苛立つという独白がある。人物と役者の対応は厳密には一致しないのだけど、赤い服を着ていた男優がなんとなくバス停にいた男に対応するようになっていた。
もうひとりは、夫の帰りを待つ妻の居るマンションに訪ねてきてドアのベルを鳴らして、ドアフォン越しに「私はあなたたちのように幸せじゃないんですよ」と語りかける人物で、これは山縣太一がこの人物の声や姿を演じてみせる。この実在しないと言及される人物は、作品の終盤では、マンションの夫婦に対するコメントをする山縣太一のセリフに人物像として響かざるを得ない構成になっていたと言える。

フィクション性

今回の『私たちは無傷な別人であるのか』は、いままでのチェルフィッチュの上演台本(そして事後的に発表された戯曲)とは、文体を大きく変えていて、そこもいろいろと注目されるところだ。

それについては、既に作家自身が新聞社の取材に答えて、小説を書いたことの影響があると明言しているし*2、いろいろな論者がその点に触れた評価を試みている*3

いままでなら「これからマンションってのを始めます」みたいな風に、ショートコントでも始めるみたいなことを役者が言ったりとか「でぇ、この●●さんっていうのわぁ、ここにいるこの人とは別人なんですけどぉ」みたいに語り手としてのアイデンティティを役者が主張したりすることで、語られるフィクションと舞台上で起きていることの間の区別をある種メタフィクション的に強調するような手法が用いられてきた。

そういう、口語体の饒舌さが、今回では控えられていて、わりと簡潔な、シンプルな文体が採用されていて、言葉の上での彫琢っていうよりもそぎ落としによって成り立ったみたいな文体上のシンプルさに対応するみたいに、身振りの方も、今までの多動的というか、落ち着かずに動き続けるような身振りは控えられて、なにか一つのポーズを示したり、同じ動作を反復したり、ポーズからポーズへの移行が丁寧に示されたりするようなものになっていた。

そういういままでの文体から、今回は大きく変わったのだけど、フィクションに対する向き合い方と言う面では同じなのではないか、というのが私の判断だ。

言葉の面で言えば、今回の上演台本では「男が立っています、幸せな男でした」といったような、語りの文体が採用されているのだけど、これは、「むかしむかしあるところにおじいさんとおばあさんがいました」というような、昔話の定型表現に似通った文体だ。つまり、文体自体に、語りをフィクションとして開く定型が織り込まれている。その点では、今までショートコント的な仕方の「フィクションが始まることを示す指標」が舞台作品に引用されていたのと同様に、説話的な「フィクションが始まることを示す指標」が引用されている。

では、今回の上演の終わり方はどうだろうか?そこにも、ある種の、類型化したフィクションの閉じ方があったと思う。それは、「舞台でこういうことが描かれましたが、みなさんはどう思いますか?」と問いかけるような作法だ。そのことをどう考えるかということについては、いろいろな立場がありえるだろう。作品自体が、そのような様々な立場取りを促すことを意図していたかもしれない。その点に関わる問いを、ひとつの課題として残しておきたい。

それと他者性

劇中では、実在しないとされている、まるで非正規雇用によって将来を奪われたワーキングプアの代表のような若い男の姿や、その男の姿から発せられる、幸せについての、あるいは不平等についての問いは、その話者の姿ごと、劇中ではある種の妄想として片付けられて、実在しない語り手、問い手の位置に置かれる。だから、その問いかけ方があまりに抽象的で、そこにあまりリアリティの無いものだったと感じられたとしても、作品としてはあらかじめそのリアリティの無さこそ目指されたものだったと指摘するべきところかもしれない。

この、まるで不幸の代弁者のような話者の像が、あらかじめ虚像とされている作法は、たとえば『三月の5日間』の終わりあたりで、渋谷から去ろうとしてもう一度円山町あたりに戻ってきた女子が、路上生活者の行為を野良犬の振る舞いに見間違えたことに動揺して吐き気をおぼえるという場面で示されたイメージの変奏であるように思える。いわば、目の前にありながら、その姿を認めることができない他者だ*4

この作品では、虚像として描くことで、逆に、その他者を見出せないことが示されている。作品がイメージで塗りつぶしてしまい、それが塗りつぶされたイメージに過ぎないことを明示することで、その背後にある提示されなかった現実を示唆してみせる作法だと言うこともできるだろうか。

その点について、もう一度、朝日新聞による取材記事を振り返ってみる。引用されているのは、記者の問いかけに答える岡田利規の言葉である。

今回の主人公は、経済的に余裕ある「勝ち組」の立場にいる。そして「世の中に対して恨みやネガティブな感情を抱いていない人物」である。

 「そういう人がいることは、僕にとって想像しがたいことなんです。自分が理解できないという、そこを書こうとしている」
asahi.com(朝日新聞社):劇団チェルフィッチュ 作風一変、「勝ち組」描く - 演劇 - 舞台

つまり、理解できない他者であり、「そんなことは実際には無かった」「実在しない人物」という意味では、劇中の不幸の代弁者のような若者も、タワーマンションに引っ越そうとする若い富裕層の夫婦も、同じなのではないか。

つまり、わりと細かく描写される若い夫婦のイメージもまた、想像したり共感したりできない他者の像を、表象によって糊塗してしまっているという点では、同じなのだ。そう考える。

浮浪者を犬に錯覚してしまったときの、浮浪者が人間として見えてこないことへの嫌悪感、罪悪感、そうしたものが、今回の新作では全面化していて、登場する人物像のすべて、語る位置の全てが、表象しえない他者の言葉を、表象で埋め尽くすような仕方で、舞台の外に現実を立たせるようなものになっていたのではないか、と思う。

だからこそ、語りの文体や、仕草の提示は、冷徹に様式化されたよそよそしいものでなければならなかったのではないか。

つまり、他者性を上書きして舞台から消し去ることによって他者性を示すような作法が、他者性の排除による強調になっている、そういう意図そのものが、この作品の演技の文体とセリフの文体を要請したのだ。というのが、この作品についての、私の判断だった。

(2010年3月20日記す)

*1:中継は次のアドレスで、3月22日午前11時からの予定:PULL@LIVE on UST

*2:次の記事を参照: asahi.com(朝日新聞社):劇団チェルフィッチュ 作風一変、「勝ち組」描く - 演劇 - 舞台

*3:たとえば、次のクロスレビューの藤原央登氏の評価に「演劇でなければならない必然がいまいち見出せなかった」とあるのも、小説的な文体でセリフが書かれていることへの反応のひとつだろうと思われる。ワンダーランド wonderland – 小劇場レビューマガジン おなじクロスレビューで片山幹生氏が述べた「外国語のテクストを、辞書でことばの意味を確認しつつゆっくりと精読するかのように、彼らは自分たちが観察し、感じている日常のなかの違和感、とまどいを言語化していく。」という評価も、その点に触れているのだろう

*4:『エンジョイ』での「ジーザス系」という言葉で名指される浮浪者の姿も、その主題系に重なりあうだろう。