根岸由季さんのソロを見る

根岸由季さんとは縁があって、かつてディープラッツのダンスがみたい!新人シリーズの審査を担当してたときビデオで見たのが最初だった。そのときは、よくわからないけどなんか独特なものを持ってそうな人だな、と思って推したら、その年の賞を取ったのだった。

こんな案内メールをもらって見に行った。

東京ダンスタワー『根岸企画2』のご案内です。
こんにちは。
毎度お騒がせしております。
東京ダンスタワーズの一員、根岸由季と申します。
雪がちらつき、今年も天気が不安定です。
今回のダンスタワーは『根岸企画2』。
ソロをやります。
皆さんにとって適齢期って何ですか。
今回ソロではコトバの端々に思いを込め、体の隅々を綴って行きたいと思います。
是非皆様に見て頂きたいです。

東京ダンスタワーVOL.21「根岸企画2」

3月6日(土)
開演 18:00 (開場17:40)
料金 1374円 子供半額
会場 スタジオUNO
東京ダンスタワーブログ
http://dance-tower.jugem.jp/

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なんか、日蓮上人と生臭坊主とかってテーマを決めて作った、テーマを決めて作ることは普段ないのだけど、実験的にあえてやってみた、とアフタートークで言っていた。最初は親鸞でやろうとしたけど、音が違うな、と思って、日蓮は生臭坊主だったってネットで調べたら言っている人が居て、それも面白いと思って日蓮にしたとか言っていた。いや、舞台を見るだけでは日蓮とか生臭坊主とかわからないんですが。

小一時間のソロだが、全体に、前半と後半に分かれていたように思う。

前半は、寝転んで、舌だけを使って、舌の動きだけでダンスするところから始まる。口の外に突き出して左右に細かく動かしてみたり、頬の内側から押し出してみたり。そんな非常に口の中が疲れそうなことをしている動きが、いつのまにか起き上がる動きにつながっている。動きの質感として、立ち上がって舞い踊る動きと、舌だけの動きとがまるで連続しているように感じられたのは、なにかすごいと思った。そこに運動の動機という面で連続するものがあるのだろうか。

中間に、カラフルな粘土をこねくり回している場面がある。それは、座り込んでこねくり回しているうちに、胎児なのか赤ん坊なのか、頭と手足のあるようなものと、胎盤なのか、子宮なのか、脳なのか、二つに割れたようなかたちのぶつぶつとした塊に形作られる。

その後、ゴルフのスイングの真似のような動きから始まって、いろいろな動作やポーズをコラージュ的に組み合わせていくシーンが後半の大きな場面を占めていた。他にもいくつかのシーンや要素がちりばめられていたけれど、それははっきりと言葉にできるほど正確に思い出せないので、描写はこのくらいにしておく。

あれこれ、際立った動作のパターンが繰り返されるところや、なだらかに運動の軌跡が空間に示されていく動きだとか、様式的にはむしろぎくしゃくとしているというか、多様な動きが断続的に舞台に置かれていくのだけれど、そのそれぞれが、なにか瑞々しい。

それらの動きは、ダンスの振りというよりは、ゴルフのスイングであったり、体をそらせて何かを避ける動きだったり、いろいろな所作や動作の引用のようでもあり、そうした、運動イメージにあるぶつかったり撥ね退けたりする触覚的な空間の中から、根岸さんはいろいろなモチーフを拾い上げているようにも見える。

それが瑞々しいのは、きっと、それぞれの動きにたいして、純粋にそう動きたいという欲求から発したものが一貫されているというか、余計なことはなるべくしない、やりたいことだけを抽出して組み立てていくようなところがあったからではないかと思う。

やりたいことをやるというのは、簡単なことのようだけど、実は、やりたいことだけをやりぬくというのは、なかなか困難なことで、ついつい、私たちは、こうやっておけば安全じゃないか、とか、こうやっておくべきだと世の中的にはされているよね、とかという、見かけの義務感みたいなものによりかかって、やりたくもないことをついついやっては安心してしまうようなところがある。

そういう、やりたくないのにやらないといけないとつい思ってしまうこと、やっておくと安心できるようなやらなくてもいい余計なことに、舞台に立つときにも、よりかかってしまいがちで、そういう安心に頼って、なんとか舞台に立ち続けられたことで満足してしまうということも、わりとありがちで、そういう安心に観客も寄りかかってしまうことがあって、それはでも、退屈なことだ。なんか、いろいろわかったつもりになる安心や、偽りの納得によって、そういう退屈に気がつかないふりをしたり、やりすごしてしまうことがある。

根岸さんのダンスが、ほとんど瑞々しいものだけを集めてできていたように思えるのは、そういう、余計なものがほとんど無い時間が舞台に持続したからなのではないのか、と言う風なことを、考えた。

(3月15日記す)