東京駅八重洲口ビルへの弔辞

東京駅のもと大丸のビルが去年壊されていて、今年の1月にはほとんどあとかたもなくなっていた。
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大丸が入っていたビルでは、クレーの絵を見たり、トーベ・ヤンソン展を見たり、それなりの思い出があって、先日、たまたま近くに立ち寄ったときにすっかりビルがなくなっているのを見て、あの中空の何もなくなってしまったあたりで、そんな絵をみたりしたのだった、と思った。

大丸のビルのことについては、壊されるのを知って次のような記事を書いたこともあった。
70’sの風景 - 白鳥のめがね

大丸のビルを壊してしまうことについては、保存運動みたいなことは起きない。
戦後という一時代の様式や空間というものは、惜しまれることも無く消えていくし、むしろ、時代の趨勢としては、誰もがこぞって無かったことにしたいようだ。

最近、森まゆみさんの『東京遺産』という本を読んだ。谷根千の人が東京駅の保存運動とかにかかわっていたんだ、ていうか、赤レンガの東京駅も壊される計画があったんだな、と驚かされた。

東京遺産―保存から再生・活用へ― (岩波新書)

東京遺産―保存から再生・活用へ― (岩波新書)

でも、赤レンガの駅舎は保存すべきだと考える森まゆみさんも、戦後の風景の基点である、大丸のビルについては、次のような発言を留保無く書き付けている。

上野駅のあのコンコースは日本でも一級の建築空間で、あれ、自分はヨーロッパにいるのかな、と錯覚するほど異国情緒がある。あそこは残すべきです。仙台だの盛岡だのの新幹線の駅の下らなさ。知らないうちにデパートの中に入れられてしまい、何の旅の印象も残さない。あの手の戦後のデパート駅舎のさきがけ、東京駅八重洲口ビルをまず壊したらいいと思う」と彫刻家の基俊太郎さんはいう。(p.60)

もちろん、「東京駅八重洲口ビルをまず壊したらいい」というのは森まゆみさんの言葉ではない。

しかし、赤レンガの東京駅を保存したり、谷中や根津や千駄木の街並みを保存しようとする運動が、「東京駅八重洲口ビルをまず壊したらいい」という言葉と共にあったということは、覚えておくべきだろう。

そこにあった、破壊への欲求が、どのような排除を伴っていたのか、どのような忘却を促すものだったのか、考えておいて良いだろう。

*1:撮影は1月19日