コンテンポラリーダンスの三つの概念―覚書―

僕が90年代初頭に東京の劇場でダンスを見始めたときには、コンテンポラリーダンスという言葉は無かった。普通に見かけるようになったのは、2000年頃からのような印象があるけど、少なく見積もっても、コンテンポラリーダンスという言葉が舞台に関心がある人の間に定着するようになってもう10年近くたつ*1
コンテンポラリーダンスという言葉もすでに陳腐化しているようだ。振り返るには十分な時間がすでに経過しているだろう。この機会に、個人的に整理を試みたいと思った。

この言葉は、日本では80年代中頃以降の舞台芸術の状況に当てはまる用語ということになるだろうけど、日本でこの言葉が定着した文脈には他の国とは違う事情がある。今回はそうした歴史的背景のことは括弧にくくって、図式的な整理を行ってみたい。

おそらく、「コンテンポラリーダンスに明確な定義は無い」と言うのは不正確だ*2
複数の立場や文脈、利害関係が、微妙に絡まりあっているので、定義が一つに定まらない、と言うべきだろう。
以下の図式化は、そうした文脈や利害の違いを乱暴に整理したものに過ぎない。


Contemporary dance という言葉の字義通りの意味合いは、「同時代的ダンス」ということだから、単純に考えて、同時代とそれ以前との歴史的な区分に関わる言葉だ。したがって、コンテンポラリーダンスという言葉は、この言葉を使うひとの歴史に対する視座に応じて異なった意味合いを持つことになる。

さしあたり、近代に対する姿勢に応じて、さまざまな意味合いが三つに収斂するのではないかと思う*3

たとえば、こんな感じ*4

モダンダンスにあったモダニズム志向を、ポストモダンダンスを踏まえて、さらに原理的に徹底していくことで、ダンスの可能性を純粋に突き詰めていくことを評価する立場。ダンスの伝統を踏まえた上で、その批判的な乗り越えや徹底を強く志向する。その視点から、むしろある伝統的な様式を支えるものの排除こそが伝統を内在的に支えていた原理を方法的に徹底するひとつの形態として評価されることもある。

多元化、多様化をモダニズム以降の文化の基調であるとして、ポップカルチャーも含めた広い文脈の中に、表象一般の中の一様態として、ダンスを位置づけていく立場。ダンスの方法は、あくまで横断的な文化状況の中に位置づけられ、読み替えられていくことになり、そうした状況撹乱的*5なファクターとして身体の扱いが評価される。

バレエやモダンダンスの伝統の中に、現在のさまざまなダンス表現を考え、あくまでそれらの伝統の現在的な形態としてダンス表現を評価する立場。さまざまな新しい表現も、あくまで既になされた表現の積み重ねとその系譜を尺度として評価される。どこまでも連続性を読み込むことが批評的な視点となる*6


Aの立場からは、身体技法が不可避に持つ政治的な価値を捉え、既存のダンス技法を相対化し身体の社会性一般の観点に据えるために、身体技法の分節に微細な目が注がれるかもしれない*7

Bの立場からは、身体技法はあくまで身体表象を生み出す条件に他ならず、他の文化一般の文脈の中で考察することが優先されるため、個別のパフォーマーの身体技法や身体の意識の仕方を細かく理解することは後回しにされることもあるかもしれない。

Cの立場からは、バレエとモダンダンスのテクニックが融合しつつアカデミックなダンスが舞台表現の様式として成立するところにこそ、公共的な支援が必要なのだと主張されるかもしれず、「コンテンポラリーダンス=なんでもあり」*8という考え方はむしろ相対化されることになるかもしれない*9

実際のところは、誰がどのような客層に対して、どのような位置取りから「コンテンポラリーダンス」という言葉を語るかによって、仮に三つに整理したような概念の位置取りがさまざまに交じり合いながら多様な意味合いで言葉が使われることになるのだろう。

ただ、様々な「コンテンポラリーダンス」の中で、何を評価するのかについて、それぞれの表現の系譜の相違に応じて、視点も様々に分かれるのだろう。

この三つの概念は、大まかに言って、それぞれ文化=政治的、文化=市場的、文化=行政的、ともいえるような文脈やスタンスに対応していると言うこともできると思う。

※参考リンク
“クラウドコンピューティング○×”の寿命 - ITmedia エンタープライズ

(追記)注などを加えた。参考リンクを加えた。(2010年1月13日)

*1:NHK教育の「http://www.tora-2.com/JTOINT.HTM」というシリーズでヨーロッパのTV局が制作した20世紀ダンス史の番組が98年に放映されたとき「コンテンポラリーダンス」という枠組みがあったのが、私の印象に残っている。この言葉が定着する上で、ひとつの転機となる番組だったような気がする。その時にはすでに日本でもカタカナで使われていた用語だったけど、それほど定着はしていなかったような記憶がある

*2:たとえば、乗越たかおの次のような説明は、用語の実態についての報告としては的を射たものだろうが、単に定義付けが不十分であることの表明だとも言える。「コンテンポラリー・ダンスに興味を持ち始めた人が一番はじめにつまずくのが、「そもそもコンテンポラリー・ダンスって、何なの?」ということだ。調べてみても、なかなかスッキリ説明してくれるものはない。それはなぜか?/理由はカンタン。「コンテンポラリー・ダンスの明確な定義」というもの自体が存在しないからである。/カタギの衆には意外かもしれないが、専門家といわれる先生方でも、要は「バレエじゃなく、モダンダンスでもなく、なんとなく新しい、あのへんのダンス」といったところで書いているのである。」乗越たかおのページ/ダンス批評

*3:この区分は、純粋に論理的な整理というよりは、経験的に自分が知っているダンス批評家のスタンスを単純に図式化したようなものだ。もっと分析してそれぞれの立場を分けるパラメーターを抽出できるかもしれない。

*4:モダニズムという言葉自体説明を要する複雑な用語ではあるが、ここでは近代化の過程において生じる古典化の流れも含めて、再広義の近代的な文化現象を複合的かつ理念的にモダニズムという言葉で名指しておきたい。今後、私自身としてもこの言葉の意味合いをさらに深める機会があるかもしれない。

*5:ここで言う「状況撹乱的」なものとしての身体の位置付けとは、次のようなダンス批評家による受容経験の規定に端的に示されるようなものだ「ダンスを見るとは「めまい」の体験に近い。」ブックナビゲーション 07年12月/ダンスの輪郭を求め紡がれる言葉|木村覚

*6:日下四郎氏が次のように「誤謬」と繰り返し言うのは、この観点が一定程度広まっていることを逆に裏付けている。私は、これもひとつの可能な立場であって「誤謬」と見なすのは立場の違いにすぎないと考える。「近年この国のダンス界で、にわかにブームとなった感のあるコンテンポラリー・ダンスだが、そもそもこの呼称を、なにかモダン・ダンスの発展したメソードを指すように誤解している傾向が強い。筆者はこれまでその誤謬を何回となく指摘してきた」「〔隣同士公演〕の意味:かもねぎショット制作“ダンスシアター他動式”作品」

*7:武藤大祐氏は次のようにコンテンポラリーダンスを定義するが、この見方はコンテンポラリーダンスを身体の政治的次元から定義付けようとする立場の典型例だろう。「1990年前後に日本で「コンテンポラリーダンス」が現われてきたのも偶然ではないように思えます。いうまでもなく日本のコンテンポラリーダンスは、既存のダンス史への帰属意識も批評意識もほとんどもたない運動、つまりこれまでのダンス史とはあまり関係のないところに、それとは別の必然性をもって生まれた多様なダンスあるいは身体表現の雑多な集積です。このようなオルタナティヴな動きと、冷戦以後の暴力の蔓延との間には、何か関係があると思います。」ダンスという思考の型について | ポット出版 ただ、武藤氏はこの観点をアジア諸国との関わりの中から修正していくことになったようだ。その点については次の記事などを参照。Kyoto Panne Renholdssystemer Kyoto Panne Renholdssystemer

*8:「「コンテンポラリーダンス=なんでもあり」といった紋切り型は一歩間違えば思考停止に終わりかねない。その問題点を次の批評は正確に指摘しているだろう。「絶対的価値の否定を前提とするポストモダンの流れの中で、ダンスのみならず、あらゆる表現において多くの人々が価値相対主義的に「何でもアリ」を標榜している。だからといって、もはやコンテンポラリーダンスにおいても「アンチバレエ」を声高に叫びノーテクで開き直る段階ではない。「何でもアリ」ということは、実は「何でもない」ということと背中合わせで、畢竟するにその類のものは空虚な時代の仇花となって風化していくしかないのであろう。/既存の価値に回収されることを拒み、とはいえそれをいたずらに壊すだけではなく、「何でもアリ」と「何でもない」の隙間でもがく表現者は稀少だが確かに在る」記憶されない思い出:ダンス批評とは。 「コンテンポラリーダンス=なんでもあり」という表現もひとつの見方を反映するにすぎないと考えるべきだろう。たとえば、次のような仕方で、この定型句は使われてきた。「日本のコンテンポラリーダンスの特色はひとことでこれといえるような特色がないこと。およそ現代において考えられるダンスにおける様式が「いま・ここ」で同時に共存している様式的多様性、なんでもありのカオス状態が日本のコンテンポラリーダンスの特異な状況なのである。」日本のコンテンポラリーダンス - 中西理の下北沢通信(旧・大阪日記)、「コンテンポラリーダンスとは、何ぞやと言うとすれば、「従来のスタイルや、ルールに囚われないで、自分の個性や感性、自分なりの視点や身体能力を、表現作品の中で、自由に駆使し、膨らませていける、なんでもありのダンス」です。」jou日記 コンテンポラリーダンス入門講座原稿。雑多なものが許容されているということは「何でもある」と同義ではないし、一見分類できないような多様な事例が見られるとしても、そこには何らかの傾向があり、その傾向にも偏りがあることが観察されるはずだ。行政的なり市場的なりの、意識されないルールがそこに働いていたことを考えるべきだろう。

*9:僕が「モダン/コンテンポラリーなダンス」という風な書き方をしたり、「コンテンポラリーダンス保守本流」とかいう言い方をするときには、Cの観点を念頭においている。