配置ガールと森がある

神村恵カンパニー『配置と森』、初日の公演を見てきました。見ながらぼんやり考えたことをメモしておく*1

僕がダンスを見始めたきっかけのひとつは、坂本龍一の『ESPERANTO』だった。モリッサ・フェンレイのダンス公演のための音楽で、ライナーノーツにモダンダンスのことが解説されていて、そういうジャンルのダンスがあるんだと田舎の高校生が初めて知ったわけです*2

そんなことを思い出したのは、坂本龍一がモリッサ・フェンレイに曲を提供するのと、あんまり変わらないことが行われているんじゃないかなあという印象が残ったからだった。

たぶん、坂本龍一のファンだからモリッサ・フェンレイなんて知らないけど見てみた、みたいな人がかつて居ただろうけど、今回の上演についても、大谷能生さんのファンだから見に来たみたいな人もいたんじゃないかなあと想像する(ライン京急一度見て面白かったですけどね)。

単なる印象の話だけど、音楽とダンスとの関わり方が、相互にお客さんになっている、というか、本質的なところで創作原理を共有しては居なくて、音があって踊る、という以上の関係にはなっていない感じ。別のカルチャーが相互に敬意を払いつつとりあえずその場を共有してる感じが、『ESPERANTO』を思い起こさせたんじゃないかと思う*3

ダンスとして個人的に面白かったのは、後半のある場面で、トチアキさんと山縣さんがわりと近くにいて、屈みながら腕を少し開くような所作をしているところの質感とか緊張のあり方には心引かれるものがあった。全体にはなぜか流してみてしまって、ひっかかるところがあまり無かった。

ひとつ思ったのは、空間的にだけではなく、時間的にもブロック状になっているような印象があるところ。一分足らずくらいのサイクルで、初期条件に戻ってやり直し、みたいなリズムが刻まれていたところが多かったような気がする。たとえば、ひとつの所作の条件が、そういう単位で繰り返されたりとかするような。

そういう部分部分での模索が、全体としてひとつの作品としては成立していないというか、動きのトナリティー(調性)みたいなものが、散漫に散らばっていて、見る側としても意識が集中しないまま流されていってしまう感じというか。

不思議なのは、冒頭で暗転を繰り返していたところ。暗転というシアトリカルな処理は、ある種その場の条件をリセットするみたいな効果もあるだろうから、何かそういう短い時間で暗転してリセットするような時間の感覚は作品の全体におよぶモチーフだったりもするのかもしれない。

暗転というのは、ダンスにとっては外在的というか、本質的ではなくて、スペクタクル的な処理だと思ってきたけど、時間を持続させないということが今回の上演でダンスの模索として意図されていたとしたら、そういう集中を解除する時間の分節みたいなものを暗示する手法として、暗転がダンスの構成に本質的な関係を持つこともできるのかもしれない。

しかし、あくまで初見の印象では、暗転も含めて、いろいろなことをしているな、くらいな所に留まった。体がどういう条件でどのように動くかという方法論の話と、結果として舞台に配置される表象のレベルとの間で、いろいろなものが整理されていなくて、表象レベルの操作が残す印象の混乱が結果としてダンスの原理を見えなくさせていた(それは音楽のあり方においてもしかり)というのが、『配置と森』再演の初日の上演を見て、あくまで自分の感想に基づいた仮説というか、とりあえずの結論といったところだ。

いろいろ考えてみるべきことはある。

(追記)
そいえば、終演後、田口さんに紹介されて、河村美雪さんとあいさつした。
他人の夢を走らせる。 : うつくしい雪
河村さんにこの日のことを記述されてた。
ここで「くじ引きラボの感想」というのはWWFes2009の7月11日2公演 - 白鳥のめがねに書いた以上のことは言ってない。「適当にやってる感じが面白かったですよー。あんまり見られないものが見られて良かったです」みたいな。
(10/1/7)

*1:このいい加減なタイトルも見ながら思いついたものを採用

*2:80年代末、そのころCDが普及した頃で、レンタルレコード店がレコードを安く放出していたので買ったのだった。ダンス公演のビデオも、その後、レンタルビデオ店から払い下げになってるのを買って見た。音楽ビデオ的な編集がダメだなあと思って見たけど、ダンス自体はそれほど良いとも悪いとも思わなかった。モリッサ・フェンレイの来日公演もその後見たけど、あまり覚えてないので、特に強い感想は残らなかったのだろう

*3:ダンスにとって音楽を何と考えるかというのは、いまだに看過されがちな重要な論点ではあって、いろんな位相から考えることができることだけど、近代に入って、座って動かずに鑑賞する音楽や、座って動かずに鑑賞するダンスが成立したところで、音楽を前提としない自立したダンスを模索するという発想が出てくるのもひとつの論理的な必然みたいなものだろう。もちろん、座って動かずに分化し純化されたものを鑑賞することが良いというのも、ひとつの偏りではあるのだろうけど。音と踊りが創作原理において本質的な関係を持った例としては、ジョン・ケージカニングハムに与えた影響とかがすぐに思い浮かぶ。あと最近では足立智美さんとか。