『忠臣蔵(と)のこと』とのこと

アルテリオ小劇場に出かけてみた。

ドラマトゥルクの長島確さんが、中野成樹さんの誤意訳の方法を用いて日本の伝統に向かい合うことはできないかと考えてオファーした企画で、来年の本上演に向けたセミナー・ショーという雰囲気の企画だった*1

長島さんのコンセプトは、次の対談記事におおよそ示されている。

長島 中野さんとは海外戯曲のリーディングでご一緒し、また作品も拝見していたのですが、彼の独自の感性で翻訳戯曲を解釈する「誤意訳」という方法論は、演劇にとって重要で面白い部分をあぶり出すものだと常々思っていたんです。:::略:::中野さんは、翻訳家が考えなければいけない問題まで引き受けて、戯曲を突き放すでも引きつけ過ぎるでもなく、丁度よく宙吊りにして舞台に乗せる。その「隔たりを乗り越えるセンス」を、別の形で生かす創作はないかと考えるうちに、『忠臣蔵』という日本人的なるものを象徴する要素が大きな作品を、手がけてみたら面白いのではと思いついたんです。
http://kawasaki-ac.jp/theater-archive/091212/

舞台は、正面にはスクリーンがあって、下手側に役者が座る席が舞台にの端に縦にまっすぐ並んで待機する場所になっている。上手奥には斜めに中野さんと長島さんが座る席と長机。机のうえにはノートPCがあって、そこからプロジェクターに映像を流していた。あとは暗幕がいくつか垂れているだけの何もない黒いステージだった。

当日は、はじめ忠臣蔵について知っていることとかあらすじなんかを、まず参加した6人の役者たちが、数分ずつ順番にひとりで即興的に語って、その後、二人ずつ組になって、忠臣蔵について対話してみる、という、エチュード的な場面からはじまった。その交代でなされる語りが、江戸時代のいつごろ、どんな史実があって、どんな風に文楽や歌舞伎で取り上げられ、映画やドラマになって、観光名物になったりしているのかを示していく。

そして、戦後の日本映画黄金時代に作られた忠臣蔵から、松の廊下の場面や切腹の場面などが抜粋で上映されて、その場面を、現代の20〜30代の役者がやったらどうなるか、試演してみる、というのが中盤の流れだった。

舞台監督とプロデューサーの間でいじめがあって、それに切れるみたいな設定の翻案による寸劇みたいなものが何パターンかで繰り返される。

そこで面白かったのが、刀の扱いを現代に翻案したら、どうしたらいいか、という課題について、包丁を持って向かい合ったらどうか、というアイデアで試演をしていたところ。模型の刀で差し向かって立っても、フィクションの殺陣という感じしかしないけど、包丁を差し向けて舞台に役者が向かい合っていると、なにやら不穏な危うさがそれだけでかもし出されてくる。
そういう試みから、帯刀していた武士の日常感覚と、現代の刃物に対する日常感覚の違いが自ずと浮かび上がり、ドラマ的な図式を演劇として立ち上げ、観客に届かせるところで、何が素材として扱われるのかについて、ドラマの解剖がなされたわけだ。こういう試みは、完成した劇作品からは見えない、ドラマの素材の性格を際立たせて見せていて、シンプルなことだけど、鮮やかだった。

その後、歌舞伎と文楽で該当する場面の映像を見たのだけど、映画版の方が、なにやら武士のイメージを喚起するのに対して、歌舞伎の方は、やはり町人文化の中から生まれたものなのだよな、ということを思わせたのも、いろいろ考えるヒントをもらった気がする。
江戸の町人が見た世界と、戦後に定着した武士的美学のイメージの間には落差があって、そこには、時代考証の積み重ねが踏まえられていたとしても、ある種の先入観やイデオロギー的な虚構もあるのだろう。そこで、江戸の町人文化がどういう変容をこうむって今に伝わっているのか、いろいろ考えることがありそうだ。

史料の考証を踏まえて、松の廊下で何があったのか、史実と脚色された歌舞伎などのフィクションの違いを考える場面をはさんで、最後に、刃傷事件や討ち入りを外から見た場合どう見えたのかを、現代の事件の記録映像から探っていく転回も、とても面白かった。

たとえば、オウム真理教の幹部が刺殺された事件や、豊田商事事件の報道の録画だとか、豊田商事事件をモデルにした映画『コミック雑誌なんていらない』の該当場面が上映されて、江戸時代に実際の事件をモデルに虚構が享受されたことと、現代に実際の事件を描いたフィクションが受容されることの平行関係だとか、「仇討ち」というメンタリティーがどこかで現代に継承されているのではないか、と示唆されたりもして、このセミナーショーは終わりになった。

翻訳劇の場合は、外国の文化と現代日本の文化の間で行われてきたなぞらえの作業が、過去の日本と現代の間で行われるわけだけど、そこで、過去と現在の間で意味合いが変わるものと、そこに共通するものの間にドラマ的な図式が浮かび上がり、その枠組みの中で、ドラマの素材が加工されて、現実を照らし出すものとして、虚構としてのドラマが造形されていくことになる。そのプロセスを、舞台の上で公開して見せてもらったという印象だ。

ワンダーランドで中野成樹さんのインタビューをしたときに印象に残ったのが、次の言葉だった。

中野 学生時代、演劇の魅力は何だろうという問いに対して、ほとんどの同級生は「生」と答えた。みんな「ライブがいちばんの魅力じゃん」と言い切っていた。でも、ぼくは「演劇の一番の魅力は「ウソ」だ」と言いました。全部ウソ。ウソだからある瞬間にその世界はポーンと消えちゃう。なんちゃってと言って消えてしまう、その「なんちゃって」がいつ来るのかが魅力なの。
インタビューランド:中野成樹

演劇は消えてしまうウソとして舞台の上にある、という見方が、単なる自然主義的なリアリズムの理念とは違ったところで、ただの夢まぼろしではないような、演劇のウソに固有の現実に響く真っ当さというようなものを厳しく選び取ることになっているような気もする。今回のセミナーショーは、そんな中野さんの方法論の舞台裏をはっきり伝えてくれたように思う。

*1:ダムタイプ湘南台で『S/Nのためのセミナーショー』という企画をやったことがあって、上演の趣旨についてのセミナーとパフォーマンスが一体化している上演企画に立ち会うのは、考えてみると、それ以来ですね。