墨東まち見世ロビーの終わり/橘館の始まり+

岸井大輔さんが商店街の空き店舗に住み込んで100日連続のアートイベントを行う「100日連続」の演劇、それが「東京の条件work1 墨東まち見世ロビー」だった*1

その最後の企画を見てきた。

『インタビュー大会、墨東まち見世2009はどうだったでしょうか』
15時ー20時
墨東まち見世を卒論とか修論のネタにしている人全員集合で、最終日に公開インタビューをする会です。インタビュー「アー」も「イー」も豪華ゲストが着々と決定中。そのまま打ち上げ突入。
ロビー通信 vol.34 12月9日版: PLAYWORKS#2『東京の条件workシリーズ』by岸井大輔

墨東まち見世2009では、向島曳船あたりの地元に密着して活動してきた芸術家を中心に、街と密接な関係を結ぼうとするさまざまなアート活動が展開された。
http://machimise.net/event.html
もう10年以上、アートプロジェクトが展開されてきた地域であり、地元で町おこしをしようとする人や、現地に移り住んで活動する芸術家を巻き込んで、芸術を媒介として下町の戦前からの町並みを活性化しようという試みが積み重ねられてきた土地でもあった。墨東まち見世の実施に関わった「向島学会」という団体も、そうした試みを今まで進めてきた*2

この日の、ロビーでの最後のイベントは、アートポイント計画*3の一環として実施された「墨東まち見世2009」が、芸術家相互と地元の人々の間に何を起こし、何を残したのか、このイベントを論文のテーマにする学生から作家や地元の人などさまざまなキーパーソンへのインタビューが行われる会だった。

まちに出るアートを、単にきれいごとや建前の話で終わらせないように、いままでのアートイベントの失敗や軋轢も含めて、さまざまな問題が語られたのだけど、そういう密で厚い話が交わされる場所が100日の経過において成り立ったこと自体が、ひとつのドラマということなのだろう。

墨東まち見世ロビーは、イベント全体の「ロビー」、つまり、ある種の窓口であり、さまざまな関係者やお客さんが何気なく話し合える場所として100日間の機能を終えた後、小さな映画館として存続することになったという。

墨東エリアには、かつて30数軒の映画館がありました。日本最初の映画スタジオがあったなど、映画に縁が深い土地柄です。そのためか、現在も映画関係者や映画好きが多く住んでいます。(岸井の実感のみに基づきますが)。しかし、今、このエリアには映画館は1つもありません。
ロビーがある京島の「キラキラ橘商店街」は、昭和41年に焼失した映画館「橘館」から名付けられ、現在も「橘館通り」と呼ばれることが多いです。橘館跡にはダイエーの東京進出1号店ができ、それから、現在に至る、墨東地域と外部資本の戦いが始まったとも言えるでしょう。
『まち見世ロビー』は、旧橘館の斜め前にあります。スカイツリー完成直前の現在、この場所に映画館をコミュニティシネマ『橘館』として復活させ、次世代墨東エリアを担う世代による、垣根のないコミュニティの拠点とし、京島が高度成長期とは違った元気を持ち、外部から観光客をよびよせる象徴とすることを提案します。
橘館の運営は委員会形式で行います。第一回会合は先日無事終了、10人の準備委員と、企画概要も決まりました。
ロビー通信 vol.32 12月7日版: PLAYWORKS#2『東京の条件workシリーズ』by岸井大輔

このゴールは、ロビー100日間のプロセスを経て見出されたものだけれど、そうした結論が見出され共有されたロビーを中心とする談話の場所は、岸井さんの演出によって、可能になったということなのだろう。

ここに「コミュニティシネマ」が、地元の歴史と周囲の若手映画作家たちを結ぶ「アートポイント」として立ち上がりつつある。そういうドラマの生起を促すプロセスが岸井さんの作品としてもあった。そのプロセスが生まれるのに、岸井さんがそこにいることでおきるドラマは欠かせないものだったが、そのプロセスは、作家のものではなく、その場所の歴史として残るものでもあったわけだ。

トークイベントの途中にも、『橘館』に改装するため、スクリーンを張る作業などが進められていた。

切れ目なく『ロビー』が『橘館』に変わる姿を見せることも、自分の作品なのだ、と岸井さんはスタッフに説明していた*4

以前、劇評サイト:ワンダーランドで岸井さんにインタビューしたとき、岸井さんのドラマの概念は、「ドラマスケープデザイン」という発想につながるのではないか、と聞いたことがあった。そのときは、岸井さんから次のような回答があった。

街づくりに関してはサウンドスケープの考え方を取り入れて、音楽家は割に参加しやすい。劇作家が街づくりに入る道筋が作れたらすてきだと思います。
http://www.wonderlands.jp/interview/008/05.html

今回の『橘館』の立ち上げは、そんな道筋が始まるささやかな、しかし、重要な、一歩だったのだ、と思う。

はじめは7人ほどが集まっていたが、日の落ちるころには、20人を超える関係者が集まって、狭いロビーは満員状態になった*5

20時を超えるころには、アートポイント計画のディレクターである、(財)東京都歴史文化財団の東京文化発信プロジェクト室に属する森司課長*6も来場し、墨東まち見世2009の全体を地元や作家、そして行政サイドなどさまざまな立場から総括する議論が熱を帯びて繰り広げられた。

森司さんが、「墨東まち見世2009」に、岸井さんの企画を組み入れた背景には、長期間のアートプロジェクトを地域に着地させる上で、いままで街とドラマとをいかに関わらせるのかを模索してきた岸井さんのArtが、プロジェクトを成功させるために有効なファクターだと判断したいきさつがあったという。
『百軒のミセ』を含め岸井さんの活動を追いかけてきた僕からすれば、当然の判断という風にも思えるけど、『百軒のミセ』の期間中に岸井さんを訪ねて、短時間で岸井さんの活動の本質と意義を見抜いて、公的なプログラムの中に一般向けの説得力を与えつつ据えることができた、そうしたディレクターの判断がどのような文脈でなされたのかを、直に確認することができたのは、とてもよい機会だった*7

ある種の「無縁=アジール」のような場所として、しがらみから自由にさまざまな関係のドラマを縫い直すことができるような「アートポイント」を生起させ定着させることを目指す営みは、次年度に向けて着々と準備されていることが、この夜の話の端々にうかがわれた。

森さんと岸井さんの出会いが、ドラマの観点から21世紀の東京をひそかやかにデザインする営みとして、続こうとしている。

※関連リンク
まち見世サポーターブログ 最終日『インタビュー大会、墨東まち見世2009はどうだったでしょうか』

関連エントリー
『アーティスト・インの条件』/POTALIVE再考(9)+ - 白鳥のめがね
「まとまらない話」のまとまり - 白鳥のめがね
台車舟にのる/台車プロジェクト顛末記+ - 白鳥のめがね

*1:「墨東まち見世」のサイト「墨東まち見世」アートプラットフォームトップページ - 「墨東まち見世」アートプラットフォーム

*2:http://machimise.net/about.html

*3:アートポイント計画のプレス資料http://www.metro.tokyo.jp/INET/OSHIRASE/2009/07/20j7r200.htm

*4:翌日、『橘館』への改装がひと段落したところを捕らえた写真がTweetされていたみたい>個別「まち見世ロビーが「コミュニティシネマ橘館」に!」の写真、画像 - twitter4's fotolife

*5:なんとなく体感的に2〜30人くらいかなとおもって控えめに書いたのだけど、後から岸井さんから聞いたところ、最後には40人ほどロビーに集まっていたとか。そんなにいたとは。

*6:森司氏の肩書きは地域文化交流推進担当課長。歴史文化財団に移る前は、水戸芸術館の現代美術センター学芸員をなさっていた。当日はイタリア文化会館のイベントからとんぼ返りで駆けつけたそうだ。イタリア文化会館:文化事業への官民支援、法、地域連携 ほか、水戸芸術館時代の森司氏関連のブログなど。http://www.artscape.ne.jp/artscape/blogs/blog2/mori/ artscape blog : MORI channel

*7:この記事を書いている時には勘違いしていたけど、『百軒のミセ』を直接見に来たのは東京アートポイント計画 プログラムマネージャーの橋本誠さんで、森さんが岸井さんと会ったのは、百軒が終わってからだったそうだ。