天皇制2.0(?)と21世紀の日本社会 ―覚え書― +

決断ポトフのだだ漏れ中継でウェブ学会のディスカッションをちょっと覗いてみた。
http://web-gakkai.org/table.html
民主主義2.0とかキャラクター民主主義とかいう話を聞いていていつも思うのは、そこで日本の天皇制はどうなるのだろうか、ということ。

天皇制については何度かこのブログでも書いてきた。
キモいと日本人があまり言われなかった理由++ - 白鳥のめがね

私は、現行の天皇制を廃止するような活動が日本という国をよくするために不可欠な課題であるとは考えていないのだけど、天皇制が日本社会のありかたを深いところで規定しているのは間違いない事だと思う。

しかし、天皇制を話題にしないこと、天皇制について自覚しないことが、日本社会を改善したり日本国の適切な運営を行う上で、弊害につながるとは限らないのも確かだ。無自覚に行われる集合的な選択が、正しい答えを出すかもしれない。もちろん、その限りではないのはもちろんだが、自覚的な選択こそが正しい答えを出すとも限らない。

今、舞台芸術や日本の歴史について今年いろいろ自分が考えてきたこと感じたことをすこし原理的に整理しておきたいと思ってあれこれ思いめぐらしているところなのだけど、その話をする上で、どこかで天皇制との関わりをクリアにしておきたいと思ったので、すこしメモしておく。

現状の天皇制は、戦後の体制に過剰なまでに適応して成り立っている。政治的には日米関係、メディア的には、新聞とTVが結びついたマスメディアの体制によって、天皇制は大衆的な基盤を再生産してきた。

おそらく21世紀の間には、米軍は日本から引き上げるだろう。
2011年の地上波テレビのデジタル化をひとつのきっかけにして、マスメディアの体制は大きく変容し、ネットの社会的な影響力はさらに大きなものになる。
これらの国際的な軍事プレゼンスの変化とメディア環境の変化は、今後の日本社会の変容を伴ないながら進行し、21世紀の中頃までには、日本列島の社会が今後どのような道に進むのかが決まって行くだろう。今年の政権交代に伴って耳目を集めている、「事業仕分け」や普天間基地とか密約の問題などは、そういう大きな変容の序章の幕開きの一部でしかない。
この変化のひとつのメルクマールは、制度的には道州制がどう実現されるか、されないか、ということに集約されると思う*1

巨視的に見ると、21世紀の日本社会には、そのような課題や選択肢が用意されていて、まだそれらの課題や選択肢がどうなるか決まっているようには見えない。今の20代、30代の世代が社会の実権を握る頃に、その帰趨がはっきりしてくるのだろう。

そういう見通しにおいて、天皇制が自ずと解消される可能性も大きい。二代先の天皇が最後の天皇になる可能性がある。ただ、変容した次の日本社会が、天皇制をさらに100年のスパンで継続させる可能性も残っている。その時には、「民主主義2.0」か何か知らないが、ネットメディアが社会的なインフラとして実社会を動かす体制の中に、天皇制も根を下ろすことになるだろう。

いずれにしても、天皇制の処遇は、米軍の撤退にどう対応し、台頭する中国や朝鮮半島の情勢の変化をどう受け止めるか、という問題と絡み合いながら、日本という国家のあり方を根本的に問い直すひとつの大きな課題として、21世紀の間に、何度かおおきなトピックになっていくのだろう*2

そうした流れの中で、今売れている若手批評家とか思想家が、天皇制について沈黙してはいられない、主題的に論じなければならない立場に立つ状況が出てくるだろう。

現状は、現皇太子の後継をどうするのかの問題が沈静化しているのが、天皇論議が耳目を集めていない理由のひとつだけど、東浩紀あたりが天皇制について正面から論じていないのは、宮台真司天皇の問題を先取りして代表してしまうことで、天皇を論じなくても良い状況をセッティングしているというのも大きい要因ではないかと思う。しかし、それも、5年後、10年後には、変わってくるだろう。

ゼロ年代からテン年代へ、みたいな掛け声が流行っているけど、日本国で天皇制に基づいた年号の制度が続く限り、こういう風に西暦で年代を区切ることは、表面的には無縁なようでも、どこかで天皇制と本質的な関係を結んでいるはずだ。そういうところで、無意識のうちに天皇制を前提にしたゲームが進んでいるという可能性を検討してみるべきだろう*3

天皇制を存続する場合の解決にも、いくつかの選択肢がある。道州制の導入とあわせて、皇居を京都に移すとか、天皇家を国家権力の中枢から外して、「皇室民営化」*4を進めるとか、そういうものが積極的に天皇制を存続するための前向きな選択肢として思いつく。もちろん、天皇制というものの性格からいって、そういう解決が実現する可能性は、現状では低いように思える。天皇制は、もっと隠然とした仕方で、誰が選んだのかもわからないように存続するという可能性が高いのだろう。

天皇制が廃止される場合にも、いくつかの選択肢がある。この場合、天皇制は表舞台から去る代わりに、隠然と天皇制的なものが残り続ける可能性も大きい。そのリスクを避けるために天皇制を支持するというレトリックは今後繰り返し現れるだろうけど、そういう主張が何を代表し、どのような利害から主張されるかを、細かくウォッチしていくべきだろう。日本社会の未来がそのような議論の中から選ばれて行くことになるはずなので。

天皇制を廃止すべきだという主張は、背景が一目瞭然になるはずなので、あまり深刻に分析しなくても良いことになるとおもう。
天皇制の存続を肯定していく政治的な判断に巻き込まれて行くものを細かく分析することは、日本社会において、たとえ潜在的な仕方であれ、21世紀の文化批評の大きな課題として続くと思う。

(余談)佐野眞一さんの本を読むと、宮本常一天皇への素朴な崇敬を持っていたそうだ。これはちょっと考えてみるべきことがあるような気にさせられる話だ。
『旅する巨人』/海の民の遺産 - 白鳥のめがね

※関連リンク
天皇制廃止論 - Wikipedia
天皇制: 戦中・戦後学びましょう
2011年メディアの旅:クロサカタツヤの情報通信インサイト - CNET Japan
『月刊Voice』1月号にweb時代の「民主主義2.0(仮)」について書いた、というか連載開始のお知らせ: やまもといちろうBLOG(ブログ)

追記)なんとなく、今の皇太子の後継のことをイメージして次の天皇と書いていたので書き直した。(12月9日)
追記2)この記事を書き終えたあと、もろもろ天皇とか皇室をめぐったニュースが議論になり始めた。いろいろはじまってきたな、と思う。いずれにせよ、今は世間の反応とかに探りを入れてる段階でしょう。あと関連リンクを追加(12月13日)

*1:道州制をどのタイミングでどのような形で実行するか、しないかによって、その後の日本社会のあり方が規定されていくと思う。これは、徳川幕藩体制の成立とか、明治維新とかに匹敵するレベルの変化になると思う。表向き大きな変化がなかったとしても、その事自体が大きな選択となって日本列島の社会の未来に影を落とすことになるのだろう。

*2:慶応から明治、明治から大正、そして昭和から平成への移行がどのように進んだのかを考えるとあれこれヒントが得られるのかもしれない

*3:こういう、年代の更新を共有するゲームにおいて何かを代表し合うように立ち回る事自体が、ある面では農耕社会に特有の領土的なものの機能と深い関わりを持っているとも言えるだろう。そういう主題ではエントリーを改めて書くかもしれない

*4:たとえば、冷泉家のようなあり方がそのひとつのモデルになるのだろう。天皇制を無害化しながら国家権力の外で象徴的に存続させるという道もある。旧華族がどのように一般市民となり社会にランディングしていったのかを考えてみても良いのだろう。