若者組的なものの系譜 ―近代日本語に弔いを・番外編―

連休中、旅行しながらケータイでツイッターをちらちら見ていて妻に怒られた。
tenkyoinさんが若者組/青年団がらみでしていた議論がすこし気になっていたのだった。

若者組から青年団

青年団、というタグ付けが正確かどうかちょっとわからないけど、宮藤官九郎のドラマに出てくるような、暴力団とか落語家の一門とか、ああいう感じの、「中二病を大人に引き上げてやるためのシステム」というか、「適切に去勢してやるためのシステム」ってのが、どうも僕は好きになれないというか、合理化された現代にあんなもののドリームを見たって御伽噺でしょ、と思う。

青年団」での会話って、例えば年少の構成員の恋愛話を年長の構成員が、半ば弄りながら「善導してやる」みたいなものが多い、と思うのだけど(ソースは宮藤官九郎のドラマ)、個人的には、そういうのって気持ち悪い、と思う。

たぶん、「青年団」って喩えが実状に即してないんだろうな。夜這いとかあった時代のそれを想定してました。たぶんこれは喩えのミスです。

「若者組」に単語は全部置換したほうがよさそうです、:::略:::「青年団」は。
「若者組」のゆくえ - Togetter

そして、こういったtenkyoinさんのつぶやきにたいして、こんな指摘があったのを読んだ。

1920年代の青年団を見ると、一方にはローカルな農村復興としての自己修養運動があり、一方には官製青年団運動の下部組織という面での中央志向がある。農村に籠もる若者と東京に進出する若者の自己実現
LOVERSOUL on Twitter: "@tenkyoin 1920年代の青年団を見ると、一方にはローカルな農村復興としての自己修養運動があり、一方には官製青年団運動の下部組織という面での中央志向がある。農村に籠もる若者と東京に進出する若者の自己実現。自称ゼロアカの人たちの言論は、時に100年前の日本を思い出させる。"


若者組とか若衆宿が青年団に組織されていった系譜が、上のツイッターの議論では、いわゆるヤンキー文化論的な地域コミュニティへの視点につながっていっている*1

若者組から旧制中学、高校へ

このやりとりを見ていて思い出したのが、自分が高校に入ったときに学校の先輩後輩関係にはまだ通過儀礼的な風習があったなあ、ということ。長野県の山あいの盆地の話ですが。

オフィシャルには応援練習というのがあって、応援団的な応援の練習と称して男子が応援歌を歌わされたり、「「オス」の掛け声を大声で百回連呼とか」理不尽なシゴキを受けるというもの。これは、教師が監視してたけど、基本的に三年生が一年生に対して行っていて一週間くらい毎日放課後続いた。

その裏行事みたいなものがあって、それは、公民館に集められて、先輩の前で一芸を披露させられるというのと、その辺の野草を煮たものと納豆と生卵とコーラを混ぜたスペシャルドリンクの一気飲みを強要されるというものだった。耐え切れずに窓から吐く一年生が続出してた。

僕が入った高校は旧制中学が高校になった学校だったので、そういう風習が戦前から受け継がれていたんじゃないかと思う。もともと男子校だったこともあって、当時在学してた女子は三分の一くらい。これらの行事には、女子は半分参加みたいな感じでお目こぼしされていたと思う。これも20年近く前の話なので、今ではそんな伝統は廃れているかもしれない。

かつての若者の風習みたいなものは、一方でヤンキー文化みたいな方向に受け継がれたのと同時に、他方で旧制中学や旧制高校に受け継がれたのだろうな、と思う。

旧制中学、旧制高校から戦後の大学サークルへ

藤田富士男氏が書いた佐野碩の伝記を読んでいると、旧制浦和高校の文化祭の話とかが出てきて面白かった。演劇をやったり、レコードコンサートを開いたり、ファイヤーストームをやったりする、そういう文化祭が今の文化祭の原型としてあったのだろう。


そういう旧制の教育機関の文化が、近代化の中で旧来の若者組的風習を変形したものとしてあるのだろうと思う。それが学生運動やサークル文化を介して、オタク第一世代へとつながっているはずだ。そういうあたりの社会学的、民俗学的研究があるのかどうか、よく知らないけど。

考えてみると、僕が入学した頃の法政大学にあった学生会館の自治活動とかサークル活動にも、そういう文化の名残は色濃く残っていたのだろうな、と思う。

自分は、何かと古い文化の名残というものに縁のある生き方をしてきたのだなと思う。それを単純に懐かしんでいるわけではなくて、そのときそのときには反発も感じたりしながらやりすごしてきたわけだけど、そういう自分が辿った経路をもう少し客観化しておきたいという気もしている。

たまの石川さん

若者文化とか自治といったつながりで、たまの石川浩司さんの著作のことも思い出すので、リンクしておく。

いつしか俺の住む三岳荘は、そんな連中の溜まり場と化していったのだった。
 「石川のとこ行きゃ、必ず誰かしらいるぞ」
 しかもライブハウスでアングラな歌うたっている奴なんてーのは、たいていは怠け者が多かったのだ。
だから俺の所に来ると「同志」が沢山いるのでどーやら安心するらしいのだ。
 俺もいろんな人が出入りするのでいちいちドアを開けにいくのもかったるく、鍵も常にかけていなかった。どーせ泥棒に入られても盗まれるようなものもなーんもなかったし。鍵が開いてるから人もさらに気軽にどんどんやって来る来る、山ほど来るという悪循環に自分ではまーったく気づいていなかった。
 時にはバイトから帰って来ると全く知らない兄ちゃんが寝ていて、
 「あのー、ど、どなたですか・・・?」
 と聞くと、寝ぼけまなこで、
 「ふぁ!? あぁ、○○君の友達なんだけど、ここテキトーに誰でも泊まっていいからって言われたんで・・・」
 なんてーことすらあった。
 そのうち、ミュージシャンの卵以外にも、写真家の卵、絵描きの卵、役者の卵など、卵だらけでコケコケ音がして、
 「ここは養鶏所かーっ!!」
 という感じだったのだ。
http://members.at.infoseek.co.jp/ukyup/fune1.html

ASGという住宅街の真ん中にある画廊で演奏した時は画廊なので防音設備がなく、「学校にまにあわない」という曲で俺がギャーギャー叫んだら、ピーポピーポとおまーりさんがパトカーに乗ってやってきた。注意で済んだから良かったものの、危うく前代未聞の「歌で前科者」になるところだったのだ。臭い飯をガツガツ喰らうところだったのだ。
 ちなみにこの画廊は一階がアートスペース、二階が飲み屋になっていた。飲み屋と言ってもメニューもなければ店員もいない。そこの女主人が夕方ぐらいまでに適当に大皿料理を作っておき、客は勝手にそれを好きに取ったり、冷蔵庫からビールを出して飲んでいたりしていた。しかも驚くべきことは、料金も決まっていなかったのだ。
 全部自分の判断で、
 「今日は2千円ぐらい飲み食いしたな」
 と思ったら、2千円を店の端に置いてある棚の引き出しの中に適当に投げ込むのである。金がない時は、
 「本当はもっと飲んだけど千円で勘弁〜」
 だったり、
 「今日は金が入ったので五千円奮発しちゃおう!」
 とか勝手にやっていたのだ。もちろん誰がいくら払ったかも誰も見ていない。つまりここは、下の画廊を運営していく資金の為、美術家などがルーズながら自主的に運営している「信頼」をベースにしたある種理想的な飲み屋だったのだ。
http://members.at.infoseek.co.jp/ukyup/fune2.html

こういう社会性というか共同性が、自生的に可能であったのは、近代化の中で変形を蒙りながらもかつてのコミュニティの原理が受け継がれていたからだと思うし、そういうコミュニティの性格が今、さらに大きく変容しているのだろう。

※関連リンク
「大人が正しいことを教えてくれない」時代 - Togetter
リスク社会論と自己責任論 - Togetter
http://tenkyoin2.hp.infoseek.co.jp/castration.html

旅研による「若者組」解説。
http://www.tabiken.com/history/doc/T/T342L100.HTM

*1:この話を読んでいて思うのだけど、平田オリザの劇団「青年団」は今風に言えば青年団2.0というような意図を最初から含んでいたのだろうか、という気がしないでもない。つまり、若者文化としての演劇を大人の社会につなぐメタファーが青年団である、と。平田オリザが主唱している「コミュニケーション教育」路線というのも、おそらく青年団2.0と言えるような何かだと思う。参照:11/25「文化芸術による人づくり、社会づくり、国づくり」シンポジウムまとめ(1) : サイコロ