近代日本語に弔いを 2.12/祖父の筆跡

(承前)近代日本語に弔いを 2.11/祖母と台湾の日本語 - 白鳥のめがね

祖父からもらった手紙のことを覚えている。
それは、高校を卒業して、松本で浪人生活を送っていたころのことだ。大学受験予備校の斡旋で、まかないつきの下宿で生活をしていた*1
祖父は毎月「ジュースでも買って飲みなさい」といって、おこづかいを送ってくれた。その「ジュースでも飲め」というのが、何か、ちょっと古い感覚のような気がしていた。送ってもらったおこづかいは、CDレンタル代に消えていった。
あまり細かい文面は覚えていないけど、「望君」という風に自分の名前に君をつけて書いてあったことが印象に残っている。きっと、大学に進学するというところで、すこし大人になって、いよいよ対等な立場になるのだよ、という風に励ましてくれているような、そんなニュアンスを感じて読んでいたような記憶がある。

大学に入学してからは、哲学専攻だったので西欧の思想史の根幹を学ぶことになったのだけど、いろいろと広がった知見の座標軸の中に、自分の家族の歴史をもう一度置きなおしてみたいというような気持ちに駆られて、祖父の家に帰省するたびに、戦争のことや戦前に東京で働いていたころの話を聞いたものだ。
ちょうど湾岸戦争のころ、テレビで「砲弾の光をキレイと言うだなんて戦争の悲惨さを知らない人間だから言える事だ」といった論評がされるのを聞いたことがある。そういうのも先入観なんじゃないかと思ったことがあったのだけど、祖父の思い出話を聞いていたら、夜間に自分がいる島に向かって打ち込まれる曳光弾の艦砲射撃を遠くから見ていて、きれいだと思ったことがある、と語ってくれたことがあった*2。祖父が経験した戦場は南方の島だった。

これは、小学生の頃の話だけど、特に見せてくれと頼んだわけでも、見せてくれたわけでもなく、祖父が持っていた陸軍の軍人手帳をみつけて、片仮名漢字まじりだったので驚いたことがあった。子どもでもすぐ手に取れるところに軍人手帳を保管していたということになる。そこに祖父の思いがあったかもしれない。病気が重くない限り、遠くの観光地の大きな旅館などで開かれる戦友会には欠かさず出席していたと聞いている。
そして、これは大学を卒業してしばらく後に初めて聞いたことなのだけど、母が子どもの頃には、戦場の夢を見た祖父がいきなり叫んで起きるということがあったという。しばしば、真夜中に「ぶっ殺すぞ」といって飛び起きるのだという。祖父は戦場に行っても逃げ惑うだけだったのであり、人を殺したことはないと僕は思っていて、なぜか僕は大学を卒業するまでそのことを全く疑っていなかった。
ところが母の妹である叔母は、自分の子どもに戦争の話をするときに「祖父でさえも人を殺したことがあるのだ」と戦争の悲惨を説いて聞かせて、いとこたちはとてもショックを受けたことがあったのだと聞いたことがある。そんなことは無いと信じるような仕方で、僕は育てられたわけだ。

中学校の宿題で、家の人に戦争のことを聞いて作文するように、という課題が出たことがあった。平和教育の一環ということだったのだろう。その宿題をするのに、ちょっと気持ちがふさいだことを覚えている。なにか、子供心に、癒えた傷を刺激することのように感じていたのかもしれない。

戦争が終わってどう思ったかという質問項目が指定されていて、おずおずと祖父に聞いてみたとき、ほんのすこし考えて、「情けないと思った」と祖父は答えた。祖父の話を聞くと、終戦前に米軍の俘虜になり、しばらく後に帰還したようなのだけど*3、日本に帰る船の上から本土をみて「情けない」という思いがこみ上げたのだそうだ。日本に無事帰ってきた祖父にとっては、それは終わった戦争ではなく、日本が負けた戦争として感じられた、ということだろう。焦土と化し混乱した東京を見て、郷里に帰ろうと思ったのも自然な心情だったと思える。

捕虜になっている間には、片言の英語と身振り手振りで米兵と仲良くなって、中には「手紙をくれ、この通りに書けば届く」といってアドレスのメモを渡してくれた人もあったらしいが、日本に帰ったあと祖父はなにか怖くなってそのメモを捨ててしまったという。なにか、スパイのように扱われやしまいかと不安になったのだそうだ。
戦後にスパイというのも妙な話なのだけど、南太平洋から荒廃した東京を経由して、南信州の山村に帰ろうとする祖父には、故郷の山村が戦前の記憶と二重になって蘇ってくるような感覚があったのかもしれない。身体レベルで、そういう不安に襲われたということか。「今にして思えば、メモをとっておけばよかったかもしれないと思うこともある。せっかく書いてくれたのに、ちょっと失礼なことをしてしまったものだ。」と祖父は語っていた。
祖父は戦後天龍村に戻って、しばらくあれこれの仕事をしていたそうだが、やがて郵便局で保険の外交員として、山奥の家々を訪ねまわる仕事をすることになった。

祖父がどの島に行ったのか、詳しくは知らないのだが、祖父が世を去る直前、脳梗塞で意識がおぼろになった祖父を病室に訪ねて、ビデオカメラを借りて話を録画したことがあって、そこで南方に行く輸送船の名前を聞いたので、その録画記録を見直せば確認できると思う。夢うつつの状態でろれつもまわらない祖父だったけど、輸送船の名前は即座に答えた。

さて、祖父の死後しばらく後の話になるが、祖母があれこれいらない書類などを整理して処分していたのに、帰省したときたまたま立ち会ったことがある。そのとき、祖母にとってはいらない書類でも、僕にとっては家族の過去を知るのにとても貴重なノートや書籍があって、あれこれ興味深いものを選んで引き取ったことがあるのだけど、そのなかに、出征するまえに祖父が読んでいた一冊の本があった。内容に関する書き込みがあったので、祖父が読んだのは間違いない。

それは、戦中に出版された本で、日本の戦争が世界史的にどれだけ正しく、日本が発展する上で、どれだけ戦争は有益なのかを経済や産業の観点から説いた本だった。そういう内容なので、国策と合致しているのは当然なのだけど、民間で出版された本のようだった*4

その本の巻末の余白の頁に祖父の書き込みがあったのだけど、それは、ページいっぱいに、数行にわたって、大きく斜めに、荒々しい勢いで、まるで叫びのように書き付けられていた。文言は正確には覚えていないけれど、農村の発展のためには戦争をするしかないのか?というような、疑問をどこかに叩きつけるような言葉だった。

その書き付けを見て、祖父は祖父で、戦場に向かう上で、それは自分の郷土が発展するためのことだ、という納得をしたかったのだな、と思った。もっとも、死後それを見つけただけの私は、祖父がどこまで納得して戦場に赴いたのか知らないし、どういう覚悟をしたのかも聞いてはいない。

*1:出身の飯田には予備校がないので、浪人生たちは名古屋の予備校に行くひとも多かった。松本にも大手予備校はあったけど、寮生活がいやだというのと、進路指導を細かくされるのがいやだという消極的な理由だけで、僕は県内の弱小予備校をあえて選んでいた。いい思い出もあるけど、そういう選択が、自分の人生をよりマイナーな方向に導いていっているなと思う。

*2:次の論文を読んでみたら、内地で空襲を受けた人々にも、爆撃機を「うつくしい」と感じた人がいたということに触れられていた。矢内原忠雄は黙示録的にB29の印象を解釈したということだ。菅原克也「脅威と驚異としてのアメリカ : 日本の知識人・文学者の戦中日記から」

*3:祖父は、捕虜になったあとで、米兵にこんな話をされたと言っていた。米兵は、小石をおいて、これは日本だ、といい、大きな石をもってきて、これはアメリカだ、と言い、小石の上に大きな石を落として小石を砕いて見せて、日本は負ける、と言ったそうだ。祖父は、国力の差のことをいいたいのだな、とわかった、と言っていた。だから、祖父が捕まったのは、ポツダム宣言受諾前ということになる。なんとなく帰還したのは米軍指揮下の船だと聞いたような気がするが、そうでなくても、大岡昇平の『俘虜記』に描かれたようなキャンプで米兵と仲良くなったのだと考えておけば良いことだ

*4:内容から考えて、出征する前に読んだのは間違いないが、戦場に持っていったかどうかわからない。おそらく、出征する前にどこかに預けていて、戦後手元に戻ったということではないかと思う。内容から言って、南の島でひもじい思いをしてジャングルの中を命からがら敗走しているような時に、真っ先に捨てられて良いような気がしないでもない