唐十郎『盲導犬』から帰る−+

唐突だけど表向きまったく関係のない引用から始める。

『音楽のおしえ』もまた、音楽から何らかの人生観や審美的態度、「〜主義」などを引き出そうとする姿勢(例えば、小林秀雄の「モオツァルト」のように)を徹底的に拒否するために書かれているように思われる。「音楽は他の何ものにも還元できない、固有の価値をもつ」という、「音楽至上主義」をも含めて、である。
馬場靖雄著『社会学のおしえ』

あまり深く考えこまずに書きながら思いついたことを書いていると自分の考えがあるロジックや傾向性によってある場所に追い込まれていくわけだけど、それは、馬場靖雄さんが厳しく退けている分岐線の一歩手前あたりでぐずぐずしているだけなのではないかという気がしないでもない。

自分が演劇について書くときに、ある種の審美的態度や人生観を明らかに混入しているし、基準にしている。そういう不徹底に対するある種のうしろめたさのようなものを常に意識してはいるわけだ。ただ、自分はある種の徹底の手前に常に戻り続けてくるような気がしているし、そこに自分の守備範囲があるような気もしないでもない*1

どこの誰だか誰もがみんな知っている唐十郎

それで、唐十郎である。唐十郎のことは、何も知らないというわけではない。唐十郎が書いた戯曲が上演される場に立ち会ったこともあるし、唐十郎が舞台に立っているところも見たことがあるし、唐十郎にまつわる映像も、見る気がなくても度々見た記憶があるし、唐十郎について書かれた文章を何気なく読んだこともあった。ただ、唐十郎の演出作品に劇場で立ち会ったことは無かった。
20代の前半、青年団から演劇を見はじめたような私にとって、今更唐十郎を見ても仕方ないというのが当然の感覚だったし、唐組なら毎年いつでも見られるだろうと思っていた。多分、自分が見てもそれほど楽しめないだろうという予想があった。
近頃若い友人が唐十郎はやっぱり演出ですよと言っているのを聞いて、そういえば今まで唐十郎演出の舞台を生で見たことがなかったのにあれこれ偉そうに演劇を語っていてはやばいのではないかという気分にすこし襲われたので、弱気になって3500円を財布から出してしまったのだが、そういう心の弱さに抗して節約すべき3500円だったのかもしれない。いや、見て損をしたとは思わないし、いろいろ考えることはあったのだけど、全く想定の範囲を超えないものを見ると、見なくても同じだったと考えてしまうから、結局ただの確認作業をするのなら潔く出かけない方が良かったという気持ちもよぎる。ある種の値頃感というものを考えると、明らかに良心的な値付けなのだけど、しかし、ギリギリ出して損しないと思える値段だなあとも思う。

私は楽日に見てきたが、内容については次のリンク先を参照してもらえば良いだろう。上演の出来不出来というのは、そもそもあまり問題にならないような興行だと思う。
ワンダーランド wonderland – 小劇場レビューマガジン

私が鬼子母神のテントに行って思ったのは、主に次の二つのことだった。

観客のこと

白人種の人がちらほらと見かけられたし、若い人もいれば、ああ状況劇場からずっと見ているのだろうな、という風な、唐十郎と同世代の人もいて、基本的に平均年齢は40歳以上だろうと見受けられたけれど、幅の広い観客を集めていることが感じられた。他のアングラ系の劇団よりも、開かれている感じがする。この動員力は、あなどれない。そして、歌舞伎のように、役者が登場すると声がかかる。もうこれは伝統芸能のようなもので、お客が入るだけで、舞台のテンションが多少低かろうが、演劇的な場が出来上がってしまう。そういう場を組織し続けてしまうというところに、演出家の冴えを見るべきなのだろう。ある面では、日本的な共同性の何かを受け継ぎ変容する形で、テント空間に紐付いた擬似共同性が再生産されているのだろうし、そのことについてまだ分析的に十分語られていないことも残されているのだろうと思うが、ひとつ指摘しておきたいのは、こういう観客の組織化が、おそらく、nationとの関わりにおいて成り立っていること、そして、日本という名前に紐付くかたちで意識的無意識的に再生産されてきたあるnationがいまかなり本格的に解体されつつあるそのプロセスに、観客の組織化は一つの動源を得ているだろうということだ。
つまり、例えていえば紅テントの興行は、あるnationの下降気流に乗って、滑空する運動にほかならないのであり、それは黒テントが劇場に撤退した運動とは全く違う軌跡を描いているのだろう。
唐十郎が死んだら唐組はどうなるかと思うと、『コンプレックスドラゴンズ』の矮小な切迫感にふれた気分が沸き返る。道化に徹して舞台への歓声に微笑み返し、水平線のかなたを不動の姿勢でにらみつける唐十郎だけが掛け値なしに素敵だった。

ノローグのこと

ああ全部モノローグなんだな。と思った。対話の形をとっていようと、場面を断ち切るように、詩的なことばが声を合わせた叫びとして客席に唐突に繰り返し投げかけられようが、全部、唐十郎が書いたモノローグであり、唐十郎のイマジネーションであり、モノローグを運動させるためのスペクタクルなのだ。
日本の戯曲の多くは分割されたモノローグの連続なのではないかと最近疑ってきたのだが*2唐十郎は明白にモノローグの劇作家なのだろう。他の作品を全て見ているわけではないけど。
そして、その詩的なモノローグは、いわゆる二物衝撃*3に近いような、飛躍のあるイメージを重ね合わせるという手法で綴られる。そういうイメージの重ね合わせの運動を、「前衛的」と呼ぶのは間違いで、むしろ、たとえば俳諧であるとか、日本において伝統的に積み重ねられてきた美学の展開として考えてみるべきだったのだろう。江戸時代に役者が田舎をどさまわりしたときの芝居というのが、唐組の舞台に転生しているんじゃないかという風な空想におそわれる。
常々、アングラを新劇運動の内部での分派という風に理解した方がより理解できることがあるのではないかと思ってきたのだけど、たとえば、木下順二の同時代人として唐十郎を考える、ということが有意義なのではないか。たとえば、『子午線の祀り』で望見される大陸の果てと、『盲導犬』で憧れのように描かれる大陸の果てを、同時代的な想像力の働きとして考えてみる可能性。そして、それをnationが解体される運動の表現として解釈してみる余地。

【補足】他人のセックスはドラマにならないという図式化

ところで、モノローグとスペクタクルという言葉に唐十郎の舞台を還元してしまうとしたとき、身体についてどう考えるのかという問題が残るように思われるかもしれない。
実際、休憩前のシーンは床に這う様に抱き合おうとする男女の姿で終わるわけだし、後半は女が犬の胴輪をはめられるという、ある種SMっぽいイメージで身体の変容が描かれていくし、フーテン少年のパンツに穴があいてお尻が見えるだとか、ホモセクシュアルな関係性も舞台にある種の色気を添えていたわけで、『盲導犬』で印象にのこるのはそういう身体イメージだ。
ここでは詳しく分析する余裕は無いが、それを身体のスペクタクル化と呼んで良いような気がする。
身体の性的なイメージがドラマの不可避な源泉でありつつ、いかにドラマから遠いかということ。性行為というのは、出会いと生殖の間の通路に過ぎず、それ自体ではドラマではないとしたら*4、性行為を表象することへの傾斜はドラマから退行する傾斜なのだと図式化してみること。
結局、ポツドール唐十郎の一部を煮詰めた縮小再生産に過ぎないと位置付ける演劇史を空想してみよう。煮詰まるってことは、ラディカルというわけじゃなくて、一種の退行運動なのだと図式化してみよう。

とりあえずそう考えることで相対化しておくべき演劇史があるような感じがしているということをメモしておきたい。

(追記)補足部分の「生殖」という用語について注記を追加した。

*1:私は小林秀雄の愛読者のひとたちがどれだけめんどくさいことになりがちか、かつて多少の付き合いがあるから知っているけど、自分もまた小林秀雄の愛読者のひとりにはちがいないので、たとえば高橋悠治小林秀雄に対して示した態度を歴史的に振り返っておく作業が必要だろうとは思う。それを、津野海太郎の思索と実践と高橋悠治との交差において、見直してみる作業はするべきだと感じている

*2:そう考えながら、対話劇の可能性を夢見ているのが最近の私なのだろう。そのこと自体が、ひとつの審美的態度なのではあろうし、その審美的態度を特権化するような議論をするのは馬鹿馬鹿しいのかもしれないが、しかし、誰もが無自覚に可能性を考えられない何かがあるとしたら、それはひとつの課題として示せる何かでもあるのだろう。そうした、可能性を語るスタンス自体が、相対的に棄却されるべきものということが明白になる日が、もう既に来ているのに気がつかないだけで、その明白さがあらためて明白に訪れるかもしれないけれど

*3:二物衝撃という手法についての最良の批評的実践のひとつは、「犬猿短歌」だろう。はじめはちょっとつっけんどんで韜晦気味の紹介文だったが、最近はかなり真摯に背景を語った解説が掲載されている。http://1st.geocities.jp/sasakiarara/qanda.html犬猿短歌」は、枡野浩一の「詩的飛躍との決別」ともいえるスタンスを継承しながら、それをひとつの批評にまで高めたものとして、少なくとも日本語の詩について考えるときには考慮すべきものだと思う。

*4:この点についていくつか疑念が生じるかもしれない。たとえば、同性愛や自慰を含めて、生殖に向かわない性行為についてどう考えるのか、云々。舞台表象がドラマとして成立するかどうかが、作品として成立するかどうか、あるいは、作品としての価値を評価する上で、決定的である場合があり、その場面で性行為をドラマとして表象することはいかにして可能か、という問いに対して暫定的な回答を与えるための図式化の試みであり、あくまで舞台上で行われることについて考えている。その上で、何故生殖ということが特権化されるのかについて疑念が生じるかもしれないけれど、この点では、あえて、生殖という主題はそれ自体でドラマになりえるという仮説をあえて提示しておきたい。機会があればその点についての萌芽的な直観を展開してみたい。生殖につながらない出会いを生殖につながる出会いよりも評価するつもりは一切無い。