陳腐さの絶対肯定/『ヘアカットさん』覚書

アゴラ劇場で岡崎藝術座の『ヘアカットさん』を見た。日本社会がこれからさらに困難に直面し負債と可能性のせめぎあうなかでさらに多くの人が苦しむであろうときに、求められるのはこういう演劇だろうと思う。若さと貧しさを肯定する演劇だから、今の若い人が見る意義があるし、今、若手の演劇作家で一番注目すべきなのは神里雄大なんじゃないかという気持ちにさせられる。
http://okazaki.nobody.jp/next.htm

作品として素晴らしく綿密に構成されているので、その要素を描写して構成がこれこれこういう風に素晴らしいんですよ、と書くことはいくらでもできるのだろうけど、そんなのちゃんと見た人には見ただけでわかることだ。なぜか、構成の分析とか緻密に描写する気にならないのでほどほどのところでやめておく。まあ、気がついたことを不器用ながら記しておこう。

リリシズム

この舞台は、歌から始まる。ひとりの女(坊薗初菜)が新宿の紀伊国屋書店で歌うといっていきなり思い入れたっぷりに歌い始めるところから始まる。そして、その歌に戻って終わる。でもそこにいたるすべての迂回は円環を閉じるのではなくて、弧をなして舞台の外に飛び立つような軌跡を描いている。
カラオケで歌われるようなときに、それぞれの歌にこめられたリリシズムが鮮明な輪郭を伴って直撃してくる、そんなことを良く舞台化しえた上演だっただろう。
ふられた女の子(内田慈)が彼氏につくったパスタを象る擬人化したキャラクター(折原アキラ)が女の子の気持ちを代弁する詩を朗唱したりするのだけど、そういうのって、一歩間違えば、路上に詩を書いて売ったりするような安手のリリシズムになりかねないくらい、ど直球にストレートなもので、でも、そこには感傷に浸ることに対する慎重な距離が置かれているようにも思う。妙に飾り立てて、そうした感傷をムードとして盛り上げるようなことは一切しない。
なんだか凍えてふるえてしまうような素寒貧な場所にまで切り詰められたところでざっくりと切り出されるリリシズムは、どこまでも醒めた風な乱暴な仕方でぞんざいに言葉を投げ出すようでもあるのだけど、しかし、ぎりぎりのラインが慎重に選ばれているようにも思う。決して踏み外さない大股のステップ。
そういう言葉のひとつひとつを正確に覚えてないので、そういう印象を語るしかないのがもどかしいが、そんな感想を持った。自己陶酔とか、甘い感傷とか、ほどほどの審美性とか、そういうものは潔く捨てられている。それはつまり、倫理的に厳しい(くそ真面目な厳格さとは違う)ということであり、ミニマルなところで誠実である(誠実ぶったりはしない)、ということだ。
生きるために欠かせない息の仕方として、世界に必要なリリシズムを適切な場所に据えていくこと。

マイク/バイク

バイクに乗って事故死してしまうとか、そういう月並みさ、カラオケの歌におもわず感動してしまうというような、陳腐さ、子どもの頃通っていた床屋のイメージとか、秋になるとつい感傷的になるよね、といったありきたりさとか、そういうものを、かけがえがないとか言い始めると、とたんに胡散臭いわけだが、それを、胡散臭さをいとわずにそのままに肯定するために、慎重な手続きが踏まれている。
まるで、ショーアップされた格闘技のいかがわしいアナウンスみたいにして、登場人物を紹介する手法が二度繰り返される。それははじめ、舞台を始めるための景気付けのようにも思えるのだけど、終幕近くに置かれる二度目は、それが決定的に失われたものを思い出すためのイメージの(ファンタジックな)舞台であるかのように示される。
言ってみれば、これは一種の韜晦であって、ストレートに月並みなある種の受難劇(恋人との別れ)を演じてしまうことへの照れ隠しであるようにも思える。意識の舞台としてみれば、理容室を訪れた傷心の女の子にファンタジックな恋人との再会を提案してみせる「ヘアカットさん」(折原アキラ)は、喪失を肯定するために、仮託された仮想の人格みたいなものになり、自己内の対話をアレゴリカルに示した舞台像のようでもある。
そんな解釈可能性が、舞台の中に響きながら、どこまでも舞台に現れる人格像が肯定的な意志を自らのものにするまでの変容のドラマとして舞台に造形されていたこと、実際にそのプロセスを通じて、俳優の現れ方が変容するということが、重要なことだと思う。その意味で、ここでは、演劇が成立している。そんな風に書くと胡散臭いけど、それが胡散臭くなく見えるということも含めて、演劇が成立している。

洗濯機/蛍光灯

アゴラ劇場の下手隅の、奈落に通じている開口部に、本物のちょっと古びた洗濯機が据えつけられていて、それが女の子の貧しい独り暮らしの部屋を連想させたりもするのだけど、冒頭のモノローグで、実家からもらってきたものだと語られる。
この型落ちの洗濯機が象っているのは、戦後の日本の産業と生活のありかたそのものだろう。洗濯機は思ったほど活躍しなかったなと思ったけれど、終幕において暗転する舞台に機械式タイマーの音が響いていたことは、戦後と高度経済成長の成功の遺産を、その正負両面において担いきること抜きにして、これから先、生きて行くための最低限の誇りも維持できないという認識を言外に当然の前提として示しているようでもあるし、古びたタイマーのちゃんと作動するのかどうかおぼつかないような音は、確かに、昭和も遠くなりつつあるという感慨を、弔いの反響のように、響かせていたのだろう。
だから、グラフィカルに配置された蛍光灯が、ある種の現代美術の様式を参照させるようでいながら、やはり、古びた商店や埃じみたオフィスの雰囲気を漂わせていたことも、この舞台にアクチュアリティをもたらしていたということだろう。あるいは、ヘアカタログやインテリア雑誌をその線の上において考えてみてもいい。
手話のような独特のジェスチャーがセリフの発声に伴っていたり、良くわからない律動的な身体運動が舞台に添えられていたりするのを、たとえば床屋の看板の回転になぞらえて解釈したっていいのだけど、そういう象りの作法が開く舞台空間は、蛍光灯や洗濯機の物としての存在感が放つものと同じ地平にあったと評価するところから始まるこの舞台の享受がある。

音響

音響機材をどう使っていたか技術的なことは知らないけれど、音が前に出て舞台を覆いつくしたり、背景に退いていったりする質感が、絶妙に設定されていて、効果的だった。音楽に没頭したり、音が鳴っていてもそこから妙に外れていたりするような意識のあり方を巧みに造形していたと思う。そういう音への繊細で正確な感覚が、音声にも貫かれている。

貧しさと様式

神里雄大の作風を見て、ちょっと古いアングラ演劇っぽい、という感想を持つ人が居るという話を聞いたことがあって、確かにそんな感想を抱かせるようなところはある。でも、そう言うだけでは、PUFFYの曲がビートルズっぽいとか言うのと同じくらい無意味だ。
たとえば、わりと大きな声をはりあげる発声の仕方だったり、ダイナミックな身体の動きが組み合わされる仕方だったり、長いモノローグの叙述の様式だったり、イメージが断片的に組み合わされ、飛躍したり行ったり戻ったりを繰り返すような構成の様式だったり。
確かにそうした様式の面で、日本のいわゆるアングラ演劇が開発した手法を、神里さんは、どこまで自覚的で戦略的であるか、そしてまたどこまで細かく研究をしているのかは別にして、そんなことが問題にならないレベルで、取り入れているのだろうと思う*1
問題は、その取り入れ方、取り入れる理由がどこにあるのかということだ。アングラ演劇っぽいと思われるような様式も、追求すべきひとつの方法として、神里さんには見えているのだろう。
ここでこれ以上詳論しないが、神里さんの様式は、演劇を立ち上げるための様式として選ばれている。それが過去のものに似通っているとしたら、それは日本語で劇を立ち上げる有力な可能性のひとつであるということを意味するのだ。その可能性においてしか実現できない質があり、神里さんはその質を追及しようとしている、と断言できる。

その質がどのようなものか、という点において、考えるべきことがいくつかある。そのひとつは、日本語の響きという面で、それが、貧しさにおいて選ばれた発声である、ということだ。
明治以降の日本において、日本列島の社会で享受されていた様々な声の響きの美しさは、伝統芸能として劇場の奥に追いやられていった。その言葉の響きの大量廃棄という現実の結果として、すさんだ郊外のように平板となってしまった言語の領域に、演劇的な言葉の響きをいかに確立するのか、そうした正当な課題を、そのすさんだ荒々しさにおいて肯定するような作業において、おそらく、アングラ演劇が若さと貧しさの中から選び取っただろう質が、神里さんの選び取った質に通じるのではないか、と思う。

だから、『ヘアカットさん』の上演で、カラオケボックスの歌が重要なモチーフになり、誰もが奪い合ったり譲り合ったりするマイクがスーパースターの死とその遍在に重ねあわされることは、特権的ではない声にリリシズムが宿ることのありきたりの特異性を肯定する仕掛けになっていたのであり、それこそは、演劇において声の質がいかに重要であるかということに敏感であるべき演出家が取り組むべきモチーフであったというべきだ。

貧しさの肯定

若手の演劇作家で現代口語演劇をハイバイや五反田団の延長線上に批判的かどうかは別にして継承しようとしていたり、あるいは現代口語演劇に対する反動を企てていたりするひとは珍しくないと思うけど、平田オリザが着手した近代演劇の再開発事業を、岡田利規を批判的に継承する仕方で日本社会の将来に向けて持続させようとしているのは、神里さんくらいなものではないのか、と思われる。しかし、岡崎藝術座の『三月の5日間』を見られなかったのは残念だ。
様式においては、全く正反対であるようだけど、モノローグの作法やモノローグにおける主体の交錯、その交錯の空間から劇的なものを立ち上げる方法において、神里さんが岡田さんから批判的に継承しているものは大きいように思われる。
そこで、貧しさとか所謂ノイズというものをどのように方法的に扱うかという点で、神里さんが批判的に引き継いだ運動のリーチはとても長いと思う。
ここに作品論めいた思いつきから始まる印象論を適当にメモしておくが、『目的地』が生殖という事実をその受け入れがたさという形象において主題化していて、肯定にむかう一歩手前のためらいにおいて肯定的でありうることを示そうとしていて、その運動を岡田さんは辿っているのだろうと思ったりするのだが、神里さんは、肯定からはじまる一歩先に足を浮かせているようなもので、それは国際的という意味での「世界」において芸術の意義をどう考えるのかという点にもかかわることであり、、岡田さんが舞台を西欧を中心とした市場として受け入れその制度のなかをわたっていることを考えると、神里さんはその閉域の先へ軌道が続くような道を進み始めているように思う*2
没落のなかに安定を模索する西欧を基準とするか、新興国の勃興がひきおこす不安定を基準とするかの違いにおいて、貧しさの意味がさまざまに問い返されていくことになるだろうが、岡田さんと神里さんの間には、その厳しい区分線が、既に引かれているのではないだろうか。


(付記)
あと、大崎と田町って男二人が出てくるのだけど、どっちがどっちだか忘れてしまったので役者名を書けなかったが、残り二人の俳優は武谷公雄と酒井和哉で、わりと地味な若い男だけどそれぞれ独特の存在感を残してくれたと注記しておく。山手線の駅名が登場人物名になっていることをあれこれ解釈することもできるけど、その選び方が象っていることは、まったくのでたらめではないのだろう。

*1:詳しい人なら、もっと個別の作家の個別の作品に関連付けて影響関係を論じることもできるのかもしれないけど、私はアングラ演劇については通り一遍の知識しかない。

*2:その軌跡のひとつは、りたーんずの公演でも自伝的なしかたで素描されていたのだろう。『グァラニー 〜時間がいっぱい』 - 白鳥のめがね