失業日記・帰郷編/小笠原資料館に行く

このダイアリーには明記してこなかったけど、春先にリストラにあって失業した。そのことを実家の母にはあまりちゃんと説明しないままだったけど、帰郷したときにすこし心配したように見通しはどうかと聞かれたものだ。見通しはなかなか立たない。

失業日記#1 - 白鳥のめがね
白鳥のめがね
今になって思うと、在職中にこんな↑記事を書いていたのが皮肉というしかないが、そういう予感があったということかもしれない。

この春まで営業職で働いていた某メーカーが、SANAAと関わりのある製品をあつかっていた。その関係でSANAAのことを調べていたときに、自分の故郷に関連する建物があるのを知って、一度行って見たいと思っていた。弟に運転してもらって、車ででかけて見てきた。

旧小笠原書院・小笠原資料館 - 【建築マップ】

なんでも妹島和世さんがこの小笠原家の血縁ということだった。そういう事情があったのか。資料館で小笠原氏の系図を辿ると、松尾城の城主にいきあたる。松尾城という戦国の山城も自分の郷里の程近くにあってかつてはその領地だったろう場所で私は生まれ育ったので、なじみ深い名前だ。何度か遊びに行ったこともある。その小笠原氏が旗本になって小笠原書院の場所を治めていたと今回初めてはっきり知って、感慨深かった。
http://www1.ocn.ne.jp/~oomi/oga.html
小笠原書院は中学生くらいのころ遠足かなにかで出かけて見学したことがあった気がする。今回は家族3人に資料館の受付にいたおじいさん一人がなれた様子でこまごまと書院のあれこれを説明してくれて、資料館は自由に見学してくれ、という風だった。小笠原というくらいだから郷里と縁があるあの小笠原氏となにか関連するのだろうと漠然とは思ったのだろうが、調べたことがなかった。

芳香園 観光 旧小笠原書院
そんなとても個人的でローカルな歴史体験として、小笠原書院のたどった歴史と自分との縁にまつわる個人的な感慨があって、書き残しておきたいし、読んで欲しいのだけど、どう書いたものかいまいちよくわからない。
普段、演劇とか日本語とかについて、このダイアリーに書いてきたのと、経験の質としてはそんなに違わないはずなのだけど、別の解きほぐし方をしないと読んでもらえない気がする。そもそも、地理の感覚をどう説明したらよいのかよくわからない。

http://www.geocities.jp/ikomaihokusin/nagano/izukijinya.html
自分の育ったあたりは、南アルプス中央アルプスの間に南北に伸びた伊那盆地の南端あたり。谷間といってもそれなりに開けたところだ。天竜川沿いの河岸段丘に田んぼが広がり、江戸時代の宿場町が大きな神社の前にあったようなところで、江戸時代に城下町が栄えた市街地にもほどちかい。小笠原書院の方は、そんな自分の出身地より更に山奥のちょっと開けたゆるやかな谷間のようなところにある。車で30分ほどのぼっていく、かなり辺鄙な丘の上だ。

そんなところに館を構えた旗本が、江戸へと連なる街道筋の守りを固めながら領地を治め、地元の住民に和歌の手ほどきをしたり、人形芝居を指導して教養を涵養するなど善導しようと努め、国学を講じたりしたのだという。明治維新後帰農し、戦後、住居としていた館を市に寄付して、一家は東京の方に引っ越していったのだという。

小笠原書院に併設された小笠原資料館は、建物としてさすがにとてもよいもので、適度にその場所に刺激を与え、適度に歴史的遺構になじんでいて、その建物のロビーから小笠原書院を眺める景色は見事に演出されて立派な建物に見えるようだった。

さほど多くない展示品は、しかし、山奥に代々しっかりと伝えられてきたものとしてのそれなりの風格を備えていて、幕府の公式書類やら、和歌を切り張りした金屏風やら、鎧やらを見ることができた。

車で山を下りながら、米澤穂信古典部シリーズで描く千反田家というのは豪農といった描写をされていたけど、こんな風な帰農した元旗本みたいな家をモデルにしているものだろうか、などと考えながら、かつて領地を治めていた武士の家系でも、地域に根ざした名家として続いている家もあれば、都会に流れていった家もあるのだろうが、その違いはなんなのだろうか、というようなことを考えた。

テリトリーと土地所有の歴史、そこに名残のある文化的な遺産や社会関係というものが、戦後に寸断されながらも、まだ断片化したままモザイク状に残存していて、その整わない領土的なものがとげとげしく入り組みながら齟齬している流れについて考えて見なくてはならない。そうしないと見えてこないものがあるように思う。