平松れい子演出の The Vagina Monologues/穏やかである政治性+

ヴァギナ・モノローグを手話を交えて上演する、という企画があるということで、見てきた。翻訳担当の小澤さんが案内をくれたのだった。

タイトルからは暴露的な過激さがあるのかと連想してしまうけど、むしろ舞台は穏やかな優しさに満ちていて、政治的な問題も扱われるし、激しい告発も伴っているけれど、基本的にはユーモラスな語りが多い。ドラマ構成としては、古典的と言っても良いくらいで、エンターテインメントとして隙が無い。手話を交えた演技も興味深く、音楽や映像も含めて洗練された舞台に仕上がっていた。

だいたい、私など特に耳がきこえない人と触れ合う機会も無いような人間が手話に触れる機会があるとすればNHK手話ニュースくらいなものだけど、女性器をあらわす手話なんてお目にかかる機会はそうそうないので、そういう意味でも貴重な経験だった。

以下、作品の詳細に触れながら論じる。

戯曲について

この戯曲は、イブ・エンスラーというアメリカの女性劇作家*1の代表作にして出世作であるらしい。

200人以上の女性に自らの女性器について語ってもらい、それをもとに著者が演じた一人芝居は大反響を呼んだ*2

Wikipediaによると、世界の45ヶ国語に翻訳され、120足らずの国で上演されているというから、近年でもこれほどヒットした戯曲はないくらいポピュラーな作品と言っても良いのだろう。日本でも上演されたことがあるそうだ。本にまとめられたものが邦訳されていて広く読まれているようだ。

ヴァギナ・モノローグ

ヴァギナ・モノローグ

Eve Ensler - Wikipedia
今回の上演は、おそらく上演台本に基づく新訳なのだろうから、本とは多少違うのかもしれない(私は未読で確認はしていない)。

企画趣旨について

今回の公演はサイン アート プロジェクト.アジアンという団体が企画したもの。会の目的は「手話を芸術的なパフォーマンスとして発展させていくこと」だそうだ。

例えば音楽やダンス、演劇などと手話を融合させ、芸術性を高めたパフォーマンスで人々に感動を与えたいと考えています。そしてその芸術的な手話パフォーマンスを普及させるために幅広い活動を行っていくことを目指しています。
http://www.sapazn.net/sapazn.html

社会的な問題意識に訴える戯曲を取り上げることは、手話を用いる演劇の可能性を考える上でもひとつの挑戦だったのだろう。そうした話題を、聴覚に障害のある人に伝えること、話題性ある戯曲をとりあげることで、手話演劇に興味のない人にも訴えること、ある種スキャンダラスにも受け取られかねない話題を提示することで、出会いの機会を作ること、そんな目論見もあったかもしれない。

いずれにしてもデリケートなテーマを取り上げることには勇気が必要だったはずで、その挑戦を評価すべきだと思う。

演出とセノグラフィー

この企画を実現する上で、演出家として招かれたのが、平松れい子さんだった。ブレヒトの「処置」を演出していたりもして、確かな知性を要求するような仕事をこなしている人のようだ。

ミズノオト・シアターカンパニー主宰 平松れい子(劇作・演出)
セリフ劇のみならず、移動演劇、インスタレーション、ドキュメンタリーなど射程を超えながらも、一貫したドラマ性を展開。
http://www.notone.org/msnotone.html

日本とフランスの「ろう」の女優も含め、6人の女優が舞台に上がる舞台作品を手堅く纏め上げていたと思う。

舞台上には、五人くらい平気で腰掛けられる長いソファがあり、そこに大きなタペストリーのようなものが掛けられていたりする。それは、靴下よりも幅があるくらいなパステルカラーの帯で編まれている。同じような帯で編みあげられた丸いオブジェみたいなものが天井から下げられていて、下手の舞台袖には学芸会を飾る鎖のように、帯がいくつかたらされている。布製の球体も転がされていて、木製の椅子もいくつかおかれている。そうしたやわらかな雰囲気が舞台に醸し出されている。

そのほかには、舞台を飾るものはなく、舞台裏も丸見えになっていて、ある種冷徹でモダンなセノグラフィーのセンスが柔らかな舞台の基調にある。

これは、どこまでも虚飾を剥ぎ取る知的な手堅さの土台に、やわらかな優しさをそっと置いている、そういう意味合いを読み取れるような美術になっている。

それに対して、衣装の色合いは黒で統一されていた。全員スカートだったと思うのだけど、喪服を連想させもする黒い衣装というのも、慎ましさや落ち着きを印象付けたかったのかもしれない。ともかく、奔放にもなる語りを浮ついたものではなく見せたいという意図があったのだろう。

舞台は、インタビュー場面を再現するようなモノローグの場面を挿話的に繰り返すことが中心に据えられていて、それをつなぐナレーションがはさまれる。そして、全ての人に問いかけられたという「あなたのヴァギナが着るとしたら何を着る?」とか「しゃべるとしたら何をしゃべる?」といった、一問一答的な短い答えの連続をプロジェクターで投影していって、その答えを手話を交えたジェスチャーで群像劇的に示していく場面が合間合間に何度か繰り返される、といった仕方で進行する。

手話とナレーション

ノローグの場面では、モノローグの語りに登場する人物が(まるでチェルフィッチュの作品におけるように)他の女優によって演じられたりするのだけど、ここで面白いのが、手話によるナレーションをしながら、語りに出てくる登場人物の役を演じていたりするところ。手話としては語っているのだけど、演技としては、語り掛けられたりしている、そういう入り組んだ関係が、特に性的な話題において交差していくというのは、語りの形象それ自体として実に語られる事柄を造形してはいないだろうか。
つまり、能動性と受動性が絡み合って、お互いに照らしあうような場面として、劇的に造形されていたのだ。

だいたい手話ってそれ自体、ジェスチャーによるなぞらえみたいに成り立っているところもあるから、口頭の語りと同時に見ていくと、なんとなく意味がわかるし、手話であることを別にして、ひとつの身体表現として次元を拡張しているみたいで、とても面白かった。身振りで何かを伝えるという演技にとって本質的な事柄が、手話という形でも、集約されてしめされるみたいな。

女性器にたいする嫌悪感を持っていたある女性が、たまたまであった男性がしげしげと1時間くらいそこをみて、賛嘆してくれたことで、はじめて開放的に性にむきあうことができたというエピソードが語られる場面では、セックスが水に飛び込んでそこで泳ぐというメタファーで語られるのだけど、その場面が、手話で水に飛び込むという仕草を示しておいて、そして、手話をしていた女優と、語っていた女優の二人が、水の中を泳ぎながらたわむれるみたいなパントマイムをする、という展開になっている。

言葉の水準で物語をつむぐ場面から、フィジカルな水準で物語をつむいでいく場面への移行が、手話を仲立ちにすることで、言葉と身体との間に、まるで水に飛び込む瞬間が、二つの領域が触れ合う境界を結ぶものとしてあるように、成り立っていて、これは手話の舞台芸術的な活用としては、とても見事で、このレベルでの達成はちょっとないくらいの素晴らしい場面だった。

語りとコロス

ノローグによる再現が進んでいるときには、他の出演者たちは舞台の傍らで編物をするような仕草をしている。前を向いてうつむいてソファーに並んで編んでいることもあるし、客席に背を向けて床に座り込んで編んでいることもあるし、舞台の四方にちらばって編んでいることもある。

これは、ある種ギリシャ悲劇におけるコロスのような仕方で物言わぬ女性たち、働き生きている女性たちをあらわそうということなのだろう。物語を織物にたとえるっていうのはよくある隠喩だろうし、編物を女性的な労働ってするイメージもよくわかる。この編物するコロスというのは、ある種の穏やかさを伴ったしたたかさとか、しっかりと編み上げていく着実さを印象付けたいのだろうな、と思う。そして、それは、様々な名もない女性たちのモノローグから編み上げられたこの戯曲の解釈として忠実なものなのだろうな、と、舞台だけ見た限りでは、思った。

そうしたところで、集団の語りの中からモノローグとして主人公があらわれてくるというのが演劇史的な発生論なわけだけど、こうした演出のレベルでもこの舞台では古典的な構造が与えられていて、それが、戯曲がもっている普遍性を造形しているのだと思う。

フェミニズムと政治性

もちろんこの戯曲はフェミニズム的な問題意識を下敷きにしているだろうし、今回の上演でも、エピローグ的な部分では、アメリカの保守的な地域では上演を実施すること自体が政治的な意味合いを持っていたことが示されていた。今回の上演にあたっても、ネットでの誹謗中傷だとか、手話サークルで受け入れられなかったことだとか、様々な抵抗があったこともまた語られた。

ノローグの中では、旧ユーゴ出身のイスラム教徒の女性が兵士にレイプされた物語も取り上げられていたし、舞台終盤では、ヴァギナを虐げるな!といったプロテスト的な語りが続く場面もあった(足立由香が叫ぶように、見事に演じきっていた。華奢な雰囲気だからこそ逆に振り絞るような印象が強く残った)。

しかし、登場する女性のモノローグには、ある種のフェミニズム運動を相対化するような視点も盛り込まれている。特定の立場や政治的主張プロパガンダ劇にはならないようにする慎重な配慮はなされていたように思う。寛容さを基調にしながら、暴力に対しては抵抗する、そういうミニマムな権利意識が共有できる場を開こうとする、そういう意味での政治性を貫こうとしていて、それは、原作戯曲の精神をしっかりと上演の場に生かすことになっていたのだと思う。

話題が女性性を中心にしているので、聴覚障害の問題は後景になっていたけど、そのこと自体が、方法として手話が活用されることにおいて多様な観客が同じ舞台を共有できる場面を当たり前のものとして開いているようで、女性も、ろう者も、マイノリティとして舞台に表象されたりしていなかったし、客席においても、そういうバイアスがむしろ意識されないようになっていたと思う。単に、芸術作品としてすばらしいものとして受け取ることができるようになっている。そういう点も、逆に、政治的に言って評価すべき点だったと思う。

翻訳について

邦訳が出たのが2002年ということだけど、私は次のfont-daさんのエントリーで北アイルランドでのこの戯曲の上演について報告されているのを読んだばかりで、それまで特に意識していなかったこの戯曲に興味を持ったところだった。当該エントリーでは、こんなことが語られている。

とにかく、公演中、観客はよく笑っていた。おまんこのスラングだけで、椅子から転げ落ちるんじゃないかと思うくらい笑う。:::略:::「私のおまんこは、さぐってもさぐっても襞に覆われているグランドキャニオン!」「さあ、みんなで言ってみて、カント!」「クリトリスはなんのために存在する?そう快楽のためだけに!」あげくに、犬の遠吠えのようなオーガズムのうめき声を実演して、大盛り上がりだった。
女の体で笑うということ - キリンが逆立ちしたピアス

原作で、アメリカ各地のスラングが列挙される場面があるようで、そこを今回の翻訳劇では、日本各地の方言を列挙する場面につなげていっていた。基本的に訳語として「ヴァギナ」を使っていたのだけど、その距離感というのは、翻訳として適切だったのだと思う。翻訳劇として、日本語にしてしまうことで逆に見えないアメリカと日本の違いを、カタカナ語にすることでよく表現しえていたと思う。

そのなかで「さあ、みんなで言ってみて、カント!」に該当する場面も上演されていたのだけど、それは、日本版オリジナルであろう「おまんこ」という言葉を構成要素に分解して意味を反省するような女優ふたりの掛け合いのあとで、観客に、「さあリピートアフターミー「おまんこ」」とレスポンスを呼びかけるという仕方で翻案されていた。そのときは客電も明るくなって、観客参加を促すって展開に、ちょっと会場がどよめいたりした。
一度目では、きちんと4文字声に出せる人はいなくて、ためらいがちに言いかけた人が何人か、といった感じ。大橋ひろえが「まわりに居る人に遠慮しちゃうかもしれませんけど、言って見るときもちいいんですよー」と会場に微笑みかけながら、最後にもういっかいコールすると、ひとりだけちから強くこたえる女性がいた。

私はfont-daさんみたいに、フェミニズム的な確信をもってこの言葉をおおっぴらに使おうという態度はとてもとれないし、今もこの点に触れることにしり込みしている*3。会場でも、だんまりを決め込んでた。

アメリカみたいな原理主義的抑圧はないにしても、ある種の禁忌はあるってことを、観客自ら立ち会うようにさせていて、その点でも、ひとつの意訳的な翻案として、見事な翻訳劇たりえていたのかな、と思う。

ちなみに、「オーガズムのうめき声」の場面は、わりとコミカルな処理が主体になっていて、「獣のように」という感じではなかった。ちょっとパロディという風で、「アキバ系のうめき」とか「いらっしゃいませご主人様、もうお帰りですかぁ?」と萌え系声優っぽく演技するみたいな、そんな小ネタもあったりした。

ナルシズムと主体性

繰り返される質問のなかに「あなたのヴァギナはどんな匂い?」という質問があって、あえてこれを聞く、そこを逃げない、というのが、なかなか本質的な問題を突いているな、と感心するのだけど、回答にはいくつかのパターンがある。

ひとつは、水とかナチュラルなイメージというか、自然を連想させる回答。ひとつは、「生ごみ」とか、嫌悪を隠さない回答。そして、高価な香水とか豪華な食べ物になぞらえるようなロマンチックな回答。

これは、アイデンティティの根幹に触れる問題で、ほんとうに、デリケートな襞に触れてくるようなものがある。聞いている私も、そういうものに触れられてくるような思いをしながら答えのひとつひとつを見ていた。

これらの回答に、出演者もパンフレットで回答していたりするのだけど、正直な話、あんまりロマンチックすぎる回答を目にすると、ちょっと、辟易してしまう自分を感じていた。嫌悪を訴えるような回答の方が、むしろ受け入れやすいのだった。

ノローグの中でも、ヴァギナをバラのつぼみに例えながら、ある種のヴァギナワークショップに参加して、クリトリスをはじめて認識して、マスターベーションの喜びに触れたときのことを、「原始のジャングルを抜けて天につながるよう」と、ドリーミーに語る女性の場面があった。

そういうのって、一種のナルシズムだよな、と思った。この作品は、むしろ、そういうナルシズムの側面を、ただありのままに示すことに、とても慎重な配慮を払っているというべきだろう。過度にナルシズムをあおることもしないし、やたらとさげすむこともない。そういうナルシズム的な耽溺に違和感がある女性もいることもまた、さりげなく示されても居るわけで。

そんなことにひっかかっている、自分のことを自分の問題として意識させられたのだけど、それで思い出したのが、ジュディマリのある歌のこと。今回のことがあって検索して調べたけど、「LOVER SOUL」って曲だと初めて意識した。

この歌がラジオとかで流れているのを聞くと、そこはかとなく、いやな感じがする。
こういう風に性行為の幸せを歌い上げることには、なんというか、ちょっと、おぞましさがあるな、と思う。

この歌が好きな人の中には「そんなのは嫌悪感を感じるお前が悪い」とか言い募る人も居るかもしれない。

まあ、それでも良いのだけど(よくないか)、そういう嫌悪を感じること自体を、別に、ことさら問題と思わなくても良いのだろうな、というくらいのことは考えさせてくれる自由の余地が、この戯曲と、今回の上演には、十分空けられていたと思う。

ひょっとすると、性交っていう、うまくいっていればそこで言葉はいらないはずのことをあえて言語化することに何かひっかかりを感じているのかもしれない。そういう点では、この舞台の、水の中を泳いでいるパントマイムでセックスをあらわすっていうのは、無邪気な喜びとしてセックスを表象する仕方としては、とても受け入れやすいものに思えた。まあ、それを無邪気に喜んでいいのかな、って自意識がまったく働かなかったといえば、嘘になるんだけど。

だから、そういう事柄もすこし冷静に受け止められるだけの穏やかさが舞台にあったということなのだろうし、それは決してスキャンダラスでもなく刺激的でもなかったかもしれないけど、ああいう時間が、たとえほんのひと時であれ、日本のこの社会にも開かれ得るということが示されただけでも、とても有意義な企画だったと言って良いだろうと思う。

*1:政治活動においても、たとえばアフガニスタンに行くなど、積極的に世界を動いている人らしい。Eve Ensler: "Afghanistan is everywhere"

*2:Amazonにある邦訳書の宣伝文句

*3:検索ワードとしてこの言葉を使うひとの目に触れることを思うと、ためらわずにはいられないところがある