DCPOPの「マリー・ド・ブランヴィリエ侯爵夫人」/陳腐さの絶対肯定+

劇団ダルカラードポップ(略してDCPOP)の「マリー・ド・ブランヴィリエ侯爵夫人」を見てきた。前回見た『ショート7』がかなり良かったので期待していたが*1、今回は、とても良くできたまがい物にして真摯に作られた失敗作だと思う。頭で作るタイプの作演出家が、絶妙なバランスで成功することもあれば、駄作に陥る場合もある、今回は正直外れだったな、とおもう。
マリー・ド・ブランヴィリエ侯爵夫人 | 演劇・ミュージカル等のクチコミ&チケット予約★CoRich舞台芸術!
PLAYNOTE – by Kenichi Tani

舞台についてまがい物とか偽者とか言うのはおかしな話で、だってそもそもお芝居というのは現実に対するまがい物なのだから、ほんとも嘘も無いではないか、でも、それを言うなら文学だって同じことじゃない?僕は、フォニー論争*2とかいうのが昔あったんだよなとか思い出しながら「マリー・ド・ブランヴィリエ侯爵夫人」を見ていたのだけど、やっぱこれはまがい物でしょう、って思ったのですね。その直感から話を始めないといけない。

漱石はフォニー小説を書いたんだ、とはっきり言えばよかったんです。*3

現実との距離感、リアリズムとの距離感、それを作品としてパッケージする距離感が問題なのだろう。だって、俗悪というか卑俗というか、そういうものでしょ、この舞台って。でも、それは作品のテーマでもある。それをどこまで現代の芸術的達成のレベルでまじめに考え評価するかは別にして。ところで、Phonyって電話から来た言葉だって、先日坪内祐三の本を読んだら書いてあった。なるほどね。

ブログとか公演パンフレットの文言にちりばめられている、まじめにいわゆる実存かけて作っているって作者のポーズとか、「どう、オレ、演出も執筆も上手いでしょ?」的なポーズとかに、観客としてもいわゆる実存かけて向かい合うほどのクオリティかよ、これだったら歌舞伎見てた方がよっぽど楽しいし感動するよ、なんで今更こんなことやりたがるのか?って感想が、つまり、これはフォニーだ、て判断になる。

この作品は失敗しているけど、その失敗において、かろうじて、アクチュアリティがある、そのあたりは、様式としては正反対の柴幸男の作品とまったく同じ機制の中にある(単なる現実の反映としてのコンテンツ)。その点を、最大限評価しておかなくてはいけない、と私は思う。

以下、作品の詳細に触れながら論じる。



物語は単純で、貞淑な慈善家を演じる女主人公が快楽殺人的に家族や貧窮院の人々の毒殺を繰り返している、終にそれが露見するまでを描く。
主な登場人物は、女主人公の実家の人々と、その結婚相手とその愛人、女主人公と共犯の愛人とその従僕。

冒頭の場面は、教会の地下の薄暗い部屋で、そこに貧しい人々がたむろしている。若い娘が「聖書を読み聞かせようか、それともアウグスティヌスがいい?」とかと、貧しい人々に声をかけている場面が、作品のモチーフにキリスト教キリスト教的道徳、その裏面としての退廃があることが示唆される。

その地下室に女主人公が降りて、パンとワインを振る舞って行く。死にかけた老人の臨終に立ち会って毅然として慈愛に満ちたような言葉をかける女主人公。

女主人公が地下室を去って、舞台にしつらえられた階段をあがり、天井に近いほど高いところから、パリの夕暮れの情景をものがたっていくと、薄汚い毛布に包まっていた役者達が次々に毛布をはだけておのおの立ち上がる。身に着けているのは小奇麗で立派そうな衣装で、めいめい気取って行き交い、挨拶を交わして見せたりする街頭の黙劇を繰り広げる。

そして、女主人公が危篤の報を受けて実家の父親のもとに駆けつけると、先ほどの地下室の貧しい老人を演じたのと同じ役者が、父親の臨終の場面を演じる。

きらびやかに着飾った貴族の社交の場面と、襤褸に埋もれて飢えのなかに置き去りにされる貧しい人々の場面とが、表裏の関係として提示される演出だ。

この表裏の関係、うわべの虚飾に隠された悪徳や退廃、不幸、といった図式を、この舞台作品は演出上の仕掛けとして展開する。女主人公は、貧しい少女をメイドとして拾って、愛人と一緒にいかがわしいことをしたりする。主演女優の清水那保は女主人公の表の貞淑さと裏の淫蕩さを印象付ける演技を交互に示していく。

物語構成としては、探偵的な憲兵将校が女主人公を容疑者として、毒殺の手にかからず生き残った家族と共に、裏に隠されたものを表にひっくり返して明らかにしようとするある種のサスペンスとして進む。

トランプによる賭け事が、表と裏というモチーフを示す小道具として活用されて、「裏返したカードに手を置いて隠したら、そのカードの表は見えないんだ」という台詞が示されるくだりがあったりする。

そういう図式が場面転換の中に織り込まれるのは巧みだけど、その表裏反転の図式自体は、単純だ。陳腐と言ってもいい。
「隠されているものは絶対に見えない」という言葉が、聖書の言葉の裏返しとして、劇中の台詞にも示されるし、公演チラシにも表に印刷されている。

しかし、作品の展開においては、表裏一体のものが反転しあうということが示されていく。
仕掛けとしては、素朴すぎるけど、別にその仕掛けが凝っていれば予想外で面白いなんていうのは、程度問題に過ぎない。予想通りに展開する仕掛けにつきあわされることの意味は、それはそれで考えるべきだ。

作品のクライマックスでは、愛人が裏切って残した証拠をつきつけられて、女主人公の悪行が全て露にされ、ついに化けの皮をはがされて口汚く罵る姿を主演女優が演じてみせるのだけど、そういう暴露自体がプロットとしては極めて単調に進んで予想を裏切らないし、サスペンス図式はサスペンスとしては機能していなくて、むしろ淡々と物語を進行させるだけだ。女優の演技も、少なくとも私が見た回においては、あらかじめ予想されていた感情吐露がお約束で提示されたという印象を超えるものではなかった。

多分、こういった図式の配置と展開の手際よさ(その手つきが見えて、俳優たちの力量が露見する程度における手際よさ)というものが、破綻無くクライマックスまで進むということには、ほとんど何の特別な価値もない。衣装がそれなりにちゃんとしていたとかいっても、まあ、創作料理を出すようなこじゃれた居酒屋の料理がそこそこ美味かったくらいなものだ。そんなものを今更わざわざ劇場に行って見たい人など、ごく限られた人だ。そんなの、本当に金をかけた衣装の素晴らしさには及ばないのだから。

場面が幾何学的な均斉を保って滑らかに進むこと、台詞のそれぞれが擬古的な擬似翻訳調ともいえる修辞によって構築されていることも、別にたいしたことじゃない。『24』でも見ていたらもっと凝った展開が見られるのだろうし、漱石の『虞美人草』とか読んでおけば、もっと華麗な修辞を堪能できる。よくできました、という花マルくらいあげてもいいけど、まあ、どこかぎこちなさとかさかしらさとかも残るものだから決して手放しでは褒められない。俳優たちの台詞まわしだって、耳に心地よい音楽性ってレベルまでは達していないし、ときどきかみそうになりながら体裁を保っていたところは褒めるに値するってレベルだ。

まあ、いまどきこんなコスチュームプレイみたいなものをオリジナル脚本でまじめにやってみたくて、その姿勢が単なる趣味的な自己満足のレベルを超えでようと努力しているってのが、他にはそんなひとあまり居なさそうだから、ちょっと注目に値するということは最低限いえる。でも、それも好事家的関心であって、もともと興味が無い人にまでリコメンドする理由にはならない。

思いつく限り否定的な感想を列挙してみたけど、それでもなお褒めるべき何かが残るだろうと思うからこうして列挙しているのだ。

悪事が露見するまではとても滑らかに進行する舞台なのだけど、そこから終わるまで、すこしちぐはぐだった。何か、終止形の進行がちぐはぐに繰り返されて、女主人公の妹で悪事の露見に立ち会った修道女と貧民院で拾われて女主人公のメイドをしていた少女が幼馴染のようにはしゃぎながら会話するという、エピローグ的にさしはさまれる挿話も、それまでと違ったカジュアルなトーンを出そうとしているところが、それまでのトーンと齟齬していて、妙な感触を残す。

ここでは、まず、単純に、作品展開の中で表裏の入れ替わりによって暴露された退廃や背徳というものが、現実社会においても隠されてあることが示唆されているように演出されている。しかし、それではあまりに陳腐だ。

いまどき、「実はこんなことが」といわれて、心のそこから驚く人などいやしないのだし、そんな憶測は込み込みで、「裏」なんて見ようと思えばネットで簡単にアクセスできるし、そんなのたいしたリスクもなくできる。陳腐な表裏の反転ゲームは、そういうメディアに現れる限りでの現実に忠実に対応しているといえる。

表裏の反転によっては明らかにならないことを、表裏の反転図式によっては描けない。あるいは、背徳や退廃の暴露という仕方で、逆に隠されるものはあるかもしれない。それこそが「隠されているものは、絶対に見えない」という言葉の意味なのだろうか。ぎこちない終止形が繰り返される、終わりそうで終わらない終結部は、陳腐な暴露劇によって全てが明らかにされたわけではないということを示しているようだ。

おそらくここで、物語展開によっては示せない何かに触れようとして作品化できていないという症候が露呈している。その点では、柴幸男が物語を終止できないことを繰り返し舞台に露呈しているのと変わらない。

明らかにしても明らかにしても、隠されるものが常にある、というパフォーマンスとしてこの作品の終結部を見たとき、それが、表裏の反転図式を超える何か(秘められた公認されない大切なもの)がある、とか、そういう認識をもたらす装置なのだとしたら、それもまた陳腐でしかない。

虚構として成立させきることができないことにアクチュアリティがかろうじてある、と指摘することも、芸術作品を単に時代の反映と見るだけであり、それだけではクリエイティブなことではない。

しかし、そこに、創造的であろうとすれば必ず直面する難点があるのは間違いないし、現代において真摯な作家は、その難点を、それをスルーしてみせるにしろ、ぶち当たってしまうにしろ、無視はできないはずなのだから、観客が舞台を見ることを生きるうえで欠かせない何かとして受け取るとしたら、観客もまたそういう難所にぶつからないわけにはいかない。

その限りで、私はこの舞台を、単に陳腐であるといって唾棄し去ることはできなかった(それだけの理由で擁護しきることもできなかったが)。

この舞台に決定的にかけているものがあったとしたら、陳腐であることを相対的な問題で終わらせないための何か、なのかもしれない。

そんなことを考えていると、岡崎京子のある短編で、悲しいことがあって海辺にきた女の子が海で感傷にひたる自分を内省して「私って陳腐なんだわ」とひとりごちる場面があって、そんなことを思い出したりもする。そこから岡崎京子がどこに行ったかは別として、陳腐であることを相対的な度合いではない仕方で肯定するところから始めなければいけないこともあるだろう。たとえば、多少言葉がよく使えるとか、多少衣装にお金をかけるとか、多少舞台の構成がたくみだとか、そんな度合いの問題では差別化されないような陳腐さを絶対肯定する何かがなければならなかったのだ。